和歌山・大阪方面参拝の旅

平成20年5月14日~16日  泉澤慎吾記
日蓮宗本山巡り参拝の旅も十五年目になる。今回は和歌山・大阪方面の本山をお参りすることになり、曇空の都心を抜けると箱根の山並みが遠くにかすみ、天候に不安を感じながら、のぞみ1号で西へ向う。浜名湖を過ぎ、名古屋へ入る頃は天気も快復、新大阪へ到着すると五月晴れが一行三十一名を歓迎してくれた。阪和自動車道を通天閣、国際空港を右に見て「だんじり祭」で有名な岸和田を経て、和歌山市吹上に位置する「白雲山報恩寺」に到着。

【報恩寺】

慶長十四年(一六〇九)要行院日忠上人が一宇を建立、要行寺と号したのが始まり。徳川四代将軍家綱公のころ、「養珠院お万の方」以来法華信仰に縁深い家柄となった紀州徳川家の菩提寺。寛文六年(一六六六)に紀州藩祖・徳川頼宣公夫人で加藤清正公の五女八十姫こと瑶林院が亡くなられた時、夫人の愛した城南吹上の地、要行寺に葬った。その後、寛文九年二代光貞公が母の追善の為、要行寺を「白雲山報恩寺」と改め諸堂伽藍を整備、寺領二五〇石を寄進し大いに栄えた。明治維新の際、諸堂が破壊され明治十一年に復興、本山に列せられたが、昭和二十年、先の大戦で灰尽に帰し、苦難の末仮本堂を再建、昭和三十六年には心無い者の放火により全焼と、幾度の災厄を受け、昭和四十一年、本堂を再々建し、現在も僧俗一体となり諸堂の整備に努められている。本堂に案内されお開帳が始まり、合掌しお題目を唱える。客殿にて休憩、昼食を頂いた後、貫首様より重要文化財に指定されている徳川家の霊廟、梵鐘、平素は開門することのない菊のご紋の御成門等、ご案内をして頂き、特に請われて大塚総代さんが鐘をつく。四百年の時を越え、その音は歴史の重みを感じさせる。報恩寺の皆様に見送られ、山門をあとに和歌山城へ。

【和歌山城】

天正十三年、豊臣秀吉が弟の秀長に命じて築城させたもの。昭和二十年戦火の為焼失、のち市民の熱い希望により昭和三十三年復元。長い坂道を登り天守閣へ。望楼から眺める大阪湾、和歌山の街並や淡路島。素晴らしい景観が広がり疲れを忘れさせてくれる。

【加太温泉】

和歌山市内を抜けて加太海岸沿いの吾妻屋シーサイドホテルに到着。近くの淡島神社を参拝、雛流しが有名で、子授け、安産祈願等、近在の人々の信仰を集めている。一風呂浴びて手足をのばす。刻々と沈みゆく夕日を眺めながらの夕食は格別、茜色に染まる空と海、旅ならではの景色だ。寄せては返す波の音で朝を迎える。
朝食後、加太海岸を離れ、大阪は堺の妙国寺へ。

【妙国寺】

永禄五年(一五六二)仏心院日珖上人の開山。阿波国讃岐より兵を起こして畿内を支配していた三好豊前守より東西三丁南北五丁にも及ぶ広大な土地を寄進され、日珖上人の父、堺の豪商油屋常信と兄の常祐の協力で堂塔伽藍を建立寄進され、皇室より勅願所と定められた。元和元年(一六一五)大阪夏の陣の戦火を受け全焼、宝永五年(一六二八)再建され歴代によって整備されてきたが、昭和二十年の戦火で再び焼失。昭和四十七年に漸く復興した。本堂にてお開帳後、宝物殿に案内して頂いた。安土桃山時代から幕末に至る様々な貴重な展示物を拝観してあらためて妙国寺の激動の歴史を感じた。又山内には三好家から寄進された「大蘇鉄」(樹齢一一〇〇といわれる)がある。
天正七年(一五七九)、天下統一を志した織田信長、この蘇鉄を安土城に移植せるも、毎夜「妙国寺へ帰ろう」と怪しげな声に激怒、部下に命じ、切らせたところ鮮血が流れたので、さしもの信長も怖れ、再び妙国寺へ戻された。日珖上人、枯死寸前の大蘇鉄を憐れと思い法華経一千部を誦し、鉄くずを与えたところ蘇生したと伝えられている。又幕末攘夷論
いまだおさまらない慶応四年二月十五日、堺を警備する為妙国寺に駐屯していた土佐藩士と、堺港に入港していたフランス軍水兵との間に起きた堺事件。その責を負って割腹し果てた土佐藩士十一名の悲話も伝えられている。今を遡ること百四十年前のことである。
本堂前にて記念撮影をし、戦国動乱の時代に舞台となってきた妙国寺に別れを告げ、大阪道頓堀の「くいだおれ」にて昼食、さすが大阪きっての繁華街、人、人、人・・・の波。
七月八日で閉店とか馴染みの客で店内はごったがえしていた。帰りに旅行幹事の小池さんに法善寺横町、水かけ不動を案内してもらい、尼崎広済寺へ向う。

【広済寺】

別名、近松寺とも称されている。正徳四年(一七一四)日昌上人、尼崎城主松平家の協力を得て由緒ある源氏の「多田満中」勧請の妙見宮を法華道場として再興、この時、建立発起人として大きく貢献したのが東洋のシェイクスピアと称された文豪、近松門左衛門である。
時に日昌上人四十八歳、近松門左衛門六十二歳。本堂で読経、お題目を唱え、本堂脇に眠る近松のお墓(昭和四十一年国の史跡指定)にお参りをする。本堂裏手六畳二間の部屋で七十二歳の生涯を閉じるまで、幾多の名作を書き続け近松文学を世に表した。

【有馬温泉】

二日目は、六甲山脈に寄り添うように広がる日本三大温泉の一つ、有馬温泉向陽閣で旅装を解き疲れを癒す。夕食の前に、十五回一度も休むことなく参加されてきた田中八重子さん、小池弘蔵さんのお二人に、貞真上人より記念品が贈られる。
「継続は力なり」のお二人に拍手。食事に移り和やかな時を過し親睦を深める。山脈に点在する旅館のあかりがきれいな夜だった。東の空が明るくなり澄み切った朝を迎える八時三十分出発タイム、豪華な風呂・美味しい料理に少々去り難い朝だ。

【震災記念公園・異人館】

神戸垂水ICから吊り橋としては世界一を誇る「明石海峡大橋」を渡り淡路島へ。平成七年一月十七日午前五時四十六分阪神淡路を襲った震度七、三の大地震、亡くなった人六四三八人、戦後最大の被害をもたらした災害の記録を残す「北淡震災記念公園」を見学。「野島断層」が一四〇メートルにわたって当時のまま保存され、余りの凄まじさに只々驚くのみ、いまなお自然の脅威を如実に語りかけている。あれから十年、被災地も復興し、おだやかな生活を取り戻しつつあるとはいえ、まだまだ不安を抱えての生活に思いを寄せながら、再び神戸へ。六甲山脈を貫く全長8キロにも及ぶ舞子トンネルを抜け、震災前と変らぬまでに復興した神戸三宮へ。途中のビルの大時計が五時四十六分で止まっていたのが印象的だった。北野異人館を見学、明治中期の建築物(重要文化財)
のベランダからは神戸港まで見渡せる素晴らしい眺望が広がる。

【結び】

旅も終りに近づき、天気に恵まれ事故も無く参拝を続けることができた。新神戸より「のぞみ」で東京へ。三日間を振り返り、あらためて法華信仰の歴史を学び、時の流れを感じ、震災のつめ跡に思いを寄せる有意義な旅であった。これからも本山を始め日蓮聖人ゆかりの由緒あるお寺を知ることは大切なことであり、出来得る限り参加したいと思っている。
お世話になった皆さん、ありがとうございました。
 合掌  <檀家・泉澤慎吾いずみざわしんご>