私の震災体験と得た教訓

浦安市富岡在住 増田恒夫
私の家は富岡の中央公園の真ん前にあります。公園の桜が居間の硝子越しに眺められ、2階からはディズニーの花火見物が出来ます。昭和47年に建て、10年程前に半分だけ、地震に強いといわれる2×4で改築しました。
私は阪神淡路の震災後、関東にも震災は必ず来ると思っていましたので、改築の際に、家の2ヶ所に2畳と3畳の納戸を作って、倒れそうなタンスや本棚を部屋から納戸へ仕舞い込んでしまいました。普段良く使うタンスは背丈より低い高さの物で、良く居る場所には置かないようにしていました。(教訓1、倒れる危険が有る物は、倒壊防止するか、普段使わない部屋にまとめて置いておく事。)
3月11日、午後強い揺れが来ました。直感的にこれは大きい地震だと思いました。が、横方向の揺れだったので、関東大震災では無い。若しそうであれば最初は下から上への縦揺れが最初に来て、棚の中や上の物が落ちる筈だと思ったのです。強い横揺れは長く続き、1階の居間でテレビを座って見ていた私は、その姿勢のまま、室内を眺め、台所で引き出しが出たり入ったりするだけで、物の落ちる音や、割れる音がしないので、被害は小さいなと思いました。
第一次の揺れが少し納まり、2階にいた妻も下に降りて来ました。テレビが点いているので電気は大丈夫。「東北地方で大きな地震がありました。」とアナウンサーが言っています。ガスはスイッチでは着火しないので自動停止したと判断し、台所のドアを開けておこうと、それを明けた時に余震が来ました。一次と同じくらいの揺れです。
その瞬間、ドアの外にある車庫のコンクリート床と家の土台の隙間から、茶色い水と泥が30cm位吹き上げて来たのです。車庫の床は東西に浮かんだ舟のように揺れ、外塀との隙間、上水道の検針箱からも吹き上げて来たので、てっきり水道管が破裂したんだと考えました。隙間という隙間から吹き上げてくるので、どうしようもありません。
呆然と見ていただけです。これが液状化現象である事は分かっていても、実際に自宅がそうなるとは思ってもいなかったのです。余震が納まって来ると、噴出は止まりましたが、既に車庫と玄関先には20cm位の泥が溜まっていました。
 近所の人達が恐る恐る外に出て来て、中央公園の野球場の上を指差しています。鉄製の高い照明灯が斜めになり、震動の度に「ギーッ、ギーッ」ときしみ音を出しながら、今にも倒れそうに揺れています。中央公園沿いの道路は、隆起や陥没が起こり、公園入り口のコンクリートが割れて砂水が、こちらに流れて来てどんどん積もって行きます。
電柱も傾いています。自宅もそうですが、近所では外壁が割れたり、傾いたりしています。
 近所の一人暮らしのおばあさんが、避難袋を背に、「一人で家にいると怖くて、中央公園が避難場所だから」と公園入り口に来ています。しかし、もう一つの避難場所である富岡小中学校体育館に避難所が出来ているかどうかは分かりません。この泥道をそこまで行きなさいと言う訳にもいきません。公園内の集会所、老人会館も入り口の階段に泥が積もり、中の被害状態も分かりません。屋外に一人で夜明かしもさせられないと思っていたら、同じ班の老人クラブの仲間の方が「自宅に泊まりなさい。」と言ってもらえました。
(教訓2、あわてて外に飛び出さない。家の中の比較的安全な場所に避難する。揺れが止まってから動くが、余震に注意する。若し津波警報が出た場合の4階以上の高さがある緊急避難場所を決めておく。避難所開設には
時間(半?2日程度)が必要です。頼りになるのはご近所の力です。)
どうしようもないので、居間に戻るとテレビは「津波が押し寄せています。家や船が流されています。」といった映像を流していました。これは大変だ。あんな津波が来たら、浦安はひとたまりも無く皆流される。と思いましたが東京湾では津波の心配は無いと聞いたので、ひとまず安心しましたが、東北の三陸、仙台、福島に津波が次々に襲う映像は大災害になる事を予感させました。
 公園内の市非常倉庫に人が来て、運び出しをしています。話を聞くと、富小に救護所を作る中央病院のスタッフの方々でした。自動車が出払い、毛布とか簡易ベッドとかを手で運んでいるので、自治会のリヤカーを集会所から出して来て貸してあげました。泥道を引いて行かれるのを見て、有り難いと思いました。が、救護所開設情報は伝わりませんでした。
(教訓3、避難所、救護所は準備ができたら、防災無線等でアナウンスしてもらいたい。又は口伝えで町内に流さないと分からない。)
水道は出ませんでした。我が家では、ペットボトル2箱(12本)を常時、玄関に置いてあったのでなんとか2日位はしのげます。減ったら買い足していました。近所のスーパーも被害があった為閉店し、水を求める人が大勢いました。夕食の材料は、近所の八百屋さん、肉屋さんが開いていたので買ってきました。
 幸いにも何軒かは、蛇口が低い外水道からチョロチョロですが水が出ました。破裂により水圧が下がっていたのです。近所の水道管破裂により噴き出ている水も洗い物には使えます。ガスは非常用コックを再開すると使えました。自宅敷地内のチェックポイントは、水道、ガス、停電の場合は電気のメーターを見る事です。漏水、漏ガス、漏電していればメーターが回る筈です。もう一つ液状化では、下水(汚水)管の丸い蓋を、ペンチの柄で回して明けて、泥が詰まっていないかを調べる必要がありました。
(教訓4、水は大事です。飲料水の適量と風呂水の汲み置きは、是非しておいて下さい。ご近所の商店は大事です。普段からお付き合いしましょう。)
(教訓5、ガスは臭い時には使用中止です。家の外もチェックしましょう。非常時用には、カセットコンロとガスボンベを備えておきましょう。)
近所選出の市議会議員さんが来る。自治会長もハンドマイクで知り得た情報を、広い町内を徒歩で伝え回られていました。公園のトイレもアウトでした。「下水道が流れないので水洗トイレが使えない。」「明日にも非常トイレを設置します。」といった、三人コンビで富岡の復旧活動はスタートしました。役割分担は、①私が、近所が困っている事の情報を集める。②議員が、市の災害対策本部に伝え対策を聞く。③自治会長が、対策を住民に知らせる役目です。
知らせる手段は回覧板、掲示板をもっと有効に使えたらと思いました。
(教訓6、大災害の際は、防災知識を持った、動ける人が動くという流動的防災組織の作り方をして置く。誰が動けるのか、いざという場合は分からない)
富岡は高齢化が進んでいる地区ですが、中町では一番早く開発され、毎年、夏祭や、餅つき大会等でご近所の方が力を出し合うようになっていました。翌日から、自宅周りの泥掻きが始まり、3日程で一応片付きました。市内でも早い方だったと思います。泥は細かい砂粒で、乾くと埃になり、雨が降ると又流れ出し厄介な性質です。唯救いは、元は海砂なので塩分はあるが、毒性は無いと言う事です。しかし、今川、舞浜、弁天、高洲等被害の大きい地区は40?60cmも積もり、取り除くのにも一苦労だったと思います。しかし、震災直後から都内ホテルに避難し、片付けは市やボランティア任せという人もいたそうで、如何なものかと思われます。
(教訓7、普段から交流の盛んな地区は復旧が早い。)
この日はたまたま、娘は三鷹の方に朝から出かけていました。携帯電話は直後から不通となり、遥か遠方からの受信とメールの発信だけは出来ました。取りあえず171番でNTTの伝言ダイヤルにメッセージを入れておきました。テレビでは福島の原発事故情報と電車が不通の情報が流れています。7時頃、メールがまとめて受信出来、娘の安全が確認出来ました。娘はそのまま三鷹市の臨時避難所で一夜を過ごし、翌朝電車の開通で帰って来ました。
(教訓8、安否確認はメールに入れておくと、何時間か後に分かる可能性が高い。
帰宅困難な場合は、無理に帰ろうとせずに、緊急避難し電車開通を待った方が良い。他の人で6?7時間歩いて帰宅したとの話を聞きましたが、関東大震災であれば、帰路の危険性が大きいと思われます。)

 地震後、一番困ったのはトイレ、風呂でした。水は飲み物以外に、洗い物で意外に大量に必要です。口に入れる物を風呂水という訳にはいかず、近所の破裂した水道水を使う人が多くいました。
トイレも流すには、バケツ一杯の水をタンクに注ぎ足すか、勢い良くぶちまける必要があります。これも、外の下水本管があふれて来たら、即刻使用禁止です。非常用のトイレも防災用品では必要です。今回は翌日、住民で公園脇に市防災仮設トイレを設置しました。
住宅街では、トイレの設置場所も問題です。小公園とか、駐車場とか普段から決めておく事も大事です。臭いはそれほど発生しませんでした。風呂は堀江や江戸川区の銭湯や、大江戸温泉、ホテルの開放風呂、実家の
風呂等を使っていました。
(教訓9、井戸は大事です。近所に井戸が残っていたら保存しましょう。水や下水が使えない場合は利用出来ませんが、銭湯も大事な地区の財産です。)

復旧、復興ですが、地震保険は対応が早かったようです。家屋、家財の損害に支払われたと聞きましたが、火災に比べると金額は低かったようです。塀や車庫の被害は保険の対象外らしいので確認された方が良いと思います。浦安の古地図でみると、江戸時代から陸地であった所と、昭和の埋め立て地が液状化の境目になったようです。
埋め立ての工法にも問題があったという説もあります。り災証明の市の調査は1ヶ月後でした。液状化被害は、国の基準が無かった所、今回の浦安市で、家の傾き、沈下基準が出来ました。我が家は、2.6cm傾いたとの判定でした。液状化後の修復には、地盤を直す、土台を直す、建物を直す。の3方法があるそうです。
地盤は地域全体の合意で取り組まないと出来ません。土台は、ジャッキアップで持ち上げるのですが、地盤が緩い場合は、恒久的に大丈夫という保証はないようです。建物を直すのは、持ち上げクサビ等で傾きを補正する
ようです。これも恒久的とは行きません。液状化がある程度落ち着かないと、又傾いて来るそうです。
(教訓10、この際、古い家は耐震診断を受け、もう一度、地震耐久性を確かめ補強工事をした方が良いと思います。今回は震度5強でしたが、震度6を越えると、家屋の倒壊が増えます。持ち家は古地図を確かめてから。)
以上が、私の震災体験です。書いて見ると忘れた事が多いのに気付きました。皆さんも、得た教訓は書き留めておいた方が良いと思います。
 東北地方の津波被害者、原発の被災者の方々は、家、家族、財産の全てを無くされています。浦安は被害があったといっても、屋根があり、ライフラインは復旧しました。痛みはありましたがまだ恵まれていると思います。
 東北では、本格的な復旧、復興には10年以上の時間が掛かると思います。長く、自分が出来る少しの力を出して、
日本全体で支援を続けて行きましょう。
そして、忘れる前に、自分自身で次の大災害に備えましょう。
 <信徒・増田恒夫・ますだつねお>