栃木・会津参拝旅行記

本山巡り参拝の旅も今年で十二回目を迎える。栃木・会津方面、初夏の東北路。五月十一日一行四十一名、正福寺ご住職に見送られ江川橋際を出発する。車は首都高速から東北道に入り一路北へ。心配された渋滞もなく、途中休憩を交えながら栃木に入り、羽生を過ぎ程なく佐野市の開本山妙顕寺に到着する。永仁二年〔一二九四〕、中老僧天目上人が下野の国で布教している時、唐沢城主の佐野家及び家臣の若田源五郎光盛が帰依し一宇を建立、天目上人を開山に仰いだのが始まり。永享四年(一四三二)、時の将軍足利義教公より寺領三百石を寄進され、永正四年(一五〇七)佐野家の祈願所となった。天正二年(一五四七)に火災にあい全山焼失、慶長七年(一六〇三)、唐沢城の春日山移築に伴い鬼門除けとして現在地に移るも寛成六年(一七四九)、再び火災にみまわれ現存する鐘楼のみ残しすべて焼失、現在の堂宇は安政二年の建立によるものである。寺宝には日向上人作になる祖師像、宗祖荼毘所灰及び御砕骨などがある。一同合掌しお題目を唱え御開帳が行われた。後、客殿にて湯茶の御接待をいただき次の目的地に向かって山門をあとにする。

 再び東北道を北進、遠くには雪解けの進む那須連山がかすんで見える。米所・栃木の穀倉地帯を過ぎると途中にのんびりと青草を食む若駒の放牧場が見える。白河を過ぎ、釈迦堂川を渡り須賀川の牡丹園に到着。東京ドームの三倍の広さの敷地の中に二九〇種七〇〇〇株の色とりどりの牡丹が今を盛りと咲き乱れている。園内を散策し、しばし目の保養をすることができた。
名残を惜しみながら牡丹園を後にする。
阿武隈山系の地下天然水を使用、享保年間より受け継がれた、その伝統の味、乙字亭の「そば御膳」に舌つつみをうち昼食をとる。俳人松尾芭蕉も足跡を印した須賀川の景観が素晴らしい。
再び車中へ。今夜の宿泊地磐梯熱海温泉へ向かう。
磐梯温泉「華の湯」に到着。旅装を解く、日没には未だ早い。大きな檜風呂に身体を沈め、のんびりと温泉を楽しみながら今日一日を振り返る。六時、宴会。大広間で、今年で参加数十回を迎えた池田、露木、佐藤の三氏に副住職より記念品が贈られた。全員で拍手、努力を讃え敬意を表する。乾杯の後、胸襟を開き、親睦を深め、時のたつのも忘れて楽しいひと時を過ごす。
早朝四時に目が覚め、お茶を飲みながら、澄みきった、深みを増した緑を窓から眺める。朝の景色がひんやりとして心地よい。朝食はバイキング料理に舌づつみ。九時、「華の湯」に別れを告げ49号線から磐越道に入り、車中で妙国寺についてお話を聞きながら会津へと向かう。

宝光山妙国寺は、会津若松市に位置し、白虎隊自刃の悲話を伝える飯盛山を臨む地。顕本法華宗の開祖、玄妙阿闍梨日什上人が生まれ、入寂した地に、高弟日仁上人が明徳三年(一三九二)開創した寺院である。又、妙国寺は白虎隊最初の埋葬地として知られている。飯盛山で自刃した白虎隊士の遺体が野ざらしになっているのを不憫に思った当時の妙国寺の住職が夜な夜な家族と共に墓地に運び埋葬し、手厚く供養した。現在の飯盛山に埋葬されたのは明治七年になってからである。御開帳の後、貫首様から戊辰戦争と妙国寺について興味深いお話を聞き当時を偲ぶ事ができた。 客殿にて頂いた自家製の漬物が大変おいしく、会津ならではの味であった。総けやき造りの本堂、欄間の彫刻が見事。朝夕会津平野に梵鐘の音が響き人々に安らぎをあたえている妙国寺を後に、白虎隊士の眠る飯盛山へ向かう。
白虎隊は、慶應四年(一八六八)、戊辰戦争の際に十五才~十七才の少年たちで結成された。戸の口原に出陣するも衆寡敵せず、飯盛山まで逃れてきたが、鶴ケ城に上る火の手を見て、もはやこれまでと全員で自刃する。この時、一人だけ蘇生し一命を取り止めた飯沼貞吉によって、後世にこの悲劇が伝えられるようになる。案内人の説明に胸が熱くなり、思わず涙したのは私だけではない。お線香を手向け合掌して弔う。墓前にて信行会による詩吟が朗詠される。題して「白虎隊」。参詣に訪れる人も静かに聞き入っていたのが印象的であった。その後、ゆかりの場所をたずねながらゆるやかな坂を下る。次いで、野口英世の生家を見学。保存状態が良いので二百年経た今も当時の姿が保たれている。会津磐梯山、猪苗代湖の大自然に育まれた世界の野口英世の壮大なドラマがここから始まったのである。午後三時半、すべての行程を終え会津に生きた人々の激動の歴史をふりかえりながら、帰途につく。(おわり)
 <文章 檀家・泉澤慎吾 いずみさわしんご>