静岡方面本山巡り参拝

平成24年4月19日~20日
       檀家・泉澤慎吾記
今年で十八回を数える。低い雲に少々不安を感じつつも三十五名の団参一行元気に江川橋際を出発する。
午前七時湾岸から首都高速を経て東名高速へ向かう。レインボーブリッジから見る東京湾も雲でかすんでいる。
今年も楽しい旅になりそうだ。昨年は三.一一の大震災発生、止む無く中止となる。亡くなられた方々、被災された方々に祈りを捧げ、復旧復興支援に経力する。車窓に時折水滴が光る。沼津インターから富士の清流「柿田川湧水」を右に見て三島に入るが、生憎雲に遮られ雪化粧の残る富士山を眺めることが出来ず残念。これからの天候に期待する。三島市玉澤の本山妙法華寺のお上人に迎えられ山門を入る。
日蓮聖人の直弟子六老僧の第一日昭上人によって約七百年前に開かれた。その後元和七年(一六二一)この地に移転、徳川家康側室「養珠院お万の方」や「英勝院お勝」、全国の末寺八十余ヶ寺や徳川幕府が力を尽くした。当時の建物は寛政三年(一七九一)の大火で鐘楼以外の伽藍が焼失してしまった。現在の建物は百数年十年前の再建によるものが多く、今でも復興が続けられていると云う。鎌倉時代の「日蓮聖人説法の図」を始め、国の重要文化財が多数宝物殿に納められているとのこと、貫首様の説明に聞き入る。
湛慶作の仁王像が名の如く仁王立ちに目を見張る。祖師堂にて一同行衣をまといお開帳が行われた。後、茶菓のご接待を頂き庭に出る。庭園には四季折々の花が咲き、訪れる人々を和ませてくれ、菩提樹、沙羅双樹等の聖樹が織りなす優雅な環境が広がっていた。庭の一角にある「日蓮聖人像」が団参一行を見送っていた。
再び沼津へ戻り昼食となる。沼津と言えばグルメの街、朝が早かったので駿河湾名物桜エビを始め、海の幸が空腹を充してくれた。次の予定地、旧東海道沿いの遠州見附の本山、本立山玄妙寺を参拝する。
室町時代元中二年(一三八五)、日什上人によって建立された。毎年十一月十二日の御命講(お会式)には、子育て安産鬼子母神の大祭も併せて行われ、十二日の夜は近郷近在からの参詣者で賑い、小さな子育てぞうりが授けられ、我が子が丈夫に育つよう祈る若い夫婦が絶えない。日蓮聖人御尊像は元和九年(一六二二)に開眼され、約四百年の時を経、多くの寺宝が玄妙寺の歴史を物語っている。
平成十七年十二回目の団参で訪れた会津若松の妙国寺とは関係が深く、日什上人の御廟所は妙国寺にある。日蓮宗本山の奥深さを学んだ参詣であった。貫首様に見送られ山門を後にする。
明治五年学制発布に伴い開校された旧見附小学校を見学。当時浦安では寺小屋の時代。現在まで解体や修理を重ね当時の面影を残し、学校教育の歩みを伝えている。昔懐かしい教科書や石版が小学校時代を思い出し、暫し足を止める。校庭に置いてあった竹馬に乗り、童心に帰った一時であった。
一日目の行程も終り、舘山寺温泉「九重」にて旅装を解く。夕食前にクルーザーで浜名湖を一周。一昨年訪れた北海道大沼の雄大なパノラマを思い出し乍ら、暮れゆく湖の景色を堪能する。一風呂浴びて楽しい夕食タイム。今年で私を含めて三名が参加十回目と云う節目を迎えることが出来た。貞真上人より記念品を頂戴する。達成感と感激で思い出に残る参拝旅行となった。夕食は期待通り山海の珍味に舌鼓、和やかな懇親の席は夜の更けるまで続けられた。浜名湖のロープウェイが霧に霞む幻想的な朝を迎えた。朝食、出発準備と慌しい一時、ロビーの舞台で爪弾く琴の調べに心が和む。小雨降る中を見送られて湖西市へ、吉美の延兼山妙立寺を参拝。今を遡ること約六百年、至徳三年(一三八六)、日什上人の説法を聴き感動、帰依した土地の豪族が、風光明美な水の郷湖西村に上人を招いたことが始まりと伝えられている。今川、徳川両家の祈願寺であった為に寺領七十六石余りが寄進されてきた。総門、本堂、中門、鐘楼堂の建造物があり、中でも総門は最も古く、寛文五年(一六六五)に再建されたものであり、型は四脚門、寺宝「紺紙銀界金字法華経」等、数多くの重要文化財が国の指定を受けている。本堂にてお開帳が行われ合掌してお題目を唱える。
貫首様より縁起についてお話しを聞く。寺内には「トヨタ自動車」の祖、「豊田佐吉家」の墓所もあり、「日什門流八別格本山」の一ヶ寺としての歴史を窺い知ることができた。雨も上り、時代が刻まれた長い石段を下り山門をあとにする。再び一号線に乗り、浜松の「まつり会館」に立ち寄る。毎年五月の連休に行われる「凧の糸切り合戦」、夜は「御殿屋台」が練り歩く伝統のまつりを伝えている。二日目の昼食、浜松といえば「うなぎのひつまぶし」、江戸の蒲焼とは違った味を楽しみ満足、最後の休息となる。総ての行程を終え、お土産も用意、帰り支度を整えるも、残念乍ら富士山に対面出来なかった事が心残り、次の機会に
期待し浜松を後に浦安へ。今回も由緒ある本山を参拝し、お題目を唱え、歴史を知り学ぶ事ができた。
これからも可能な限り参加して「日蓮聖人」の教えを心に刻み生きる糧としたい。そんな思いを巡らせている間に夕暮れの江川橋に帰着し、充実した二日間が終わる。お世話になった団参一行に心から感謝して家路につく。合掌

新春初参り

平成24年1月7日(土)
大本山中山法華経寺~大荒行堂~朗生寺~飯高寺先ず、大本山中山法華経寺祖師堂にてお開帳、大荒行堂では第再行岩田智恭上人御導師の下御祈祷を受けました。昼食後、匝瑳市にある日蓮聖人の最高弟・日朗上人生誕の寺、朗生寺を参拝、御山主の長谷川雄一上人より心のこもった御法話を頂きました。その後、長谷川上人にご案内頂き、江戸時代(1573・天正元年)より
明治5年まで僧侶の学問所として栄えた飯高檀林飯高寺を参拝しました。

新春初参り

平成23年1月7日(金)
今年は55名参加。朝8時に浦安をマイクロバスで出発。
先ず荒行堂で今回四百日目の荒行に入行した白山本念寺・浅井信英上人御導師のもと、大勢の荒行僧に囲まれ気迫のこもった御祈祷を受けました。
その後、法華経寺本院に上がり鬼子母神堂をお参りし、大客殿にて法華経寺貫首・新井日湛猊下よりお話を頂きました。

次なる目的地は、星下りの霊蹟で知られる厚木の本山妙純寺。
途中、東名の海老名SAで各々自由に昼食を食べました。
例年はお弁当ですが、たまにはこういうのもいいでしょう。
本堂にてお開帳後、妙純寺貫首・堀日賢猊下よりお話を頂き、その後客殿にて奥様より甘酒を御馳走になりました。とても美味しかったです。

北海道 松前・函館方面参拝の旅

平成22年5月12日~14日 泉澤慎吾
昨夜からの小雨は夜が明けても止まず、気温も平年以下という低さ、十七回を数える恒例の本山巡りの出立日、少々旅支度に戸惑いを感じた朝だった。六時、バスで羽田へ、車中はいつもの顔なじみの方々ばかり、天候に関わりなく楽しい雰囲気に包まれていた。北海道松前法華寺参拝の空の旅、高度一万一千メートル雲海をぬけると青空が広がっていた。一時間程で函館空港に到着する。
渡鳥観光バスにて海沿いの国道を松前へ、天気がよくないので下北半島がかすみ、時折車窓に北の冷たい雨が光り、津軽海峡の白い波頭が見える。途中詩人石川啄木の坐像がおかれ、台座には句が刻まれていた。昭和二十九年九月沖合八百メートルの所で台風十五号によって青函連絡船「洞爺丸」が遭難、一五六三人の尊い命が失われた。五十六年前の大きな事故で
今でも記憶に新しい。海辺に建つ慰霊碑に車中から手を合わせ通りすぎる。北海道と本州を結ぶ青函トンネルが昭和三十九年に着工され、五三八五キロの世界最長の海底トンネルが完成する昭和六十三年のこと当時の
水中探査機が展示されていた。車は北海道最南端の白神岬を経て松前へ到着、昼食の後、道内に於ける日蓮宗宗門史跡、妙光山法華寺を参拝、御住職中里観正上人に迎えられる。御衣をまとい本堂へ、鐘の音に続き読経が始まる。北の大地でお題目を唱えることの意義をかみしめ、多くの先人達が布教伝道に力を尽くし、歴史に残された足跡を偲び合掌する。

中里上人のお話によると、生まれは浅草江戸っ子とのこと、縁あってこの地にてご住職となる日蓮宗六老僧のお一人「日持上人」を開基とし北辺の地を舞台に法華経を広める。今を遡ること七百年前、その後大陸に向かったといわれ海外伝道の始祖とも伝えられている。 鎌倉時代元弘元年の作で「日像」花押と「大覚僧正」の銘文のある日蓮聖人坐像は重要文化財に指定され法華寺寺宝として祖師堂に安置されて信仰をあつめている。
中里上人に見送られ法華経北の拠点である法華寺をあとにする。外はまだ時折降る雨、気温も低く寒さが厳しいが桜は満開を迎えている。明日天気の回復を願い予定より早く旅館に入る。いつも乍ら宝輪トラベル伊藤さんのきめ細かい対応によって楽しさも倍増、入浴の後夕食タイム。道南で水揚げされたウニ、アワビをふんだんに使ったお膳に満足し大いに盛り上がる。

早朝窓を開けるも小雨が少し残っているが元気に松前城の見学に出発、戊辰戦争の最末期旧幕府軍(新撰組土方歳三率いていた)と激しい攻防の舞台になった場所であり松前城周辺には八千本の桜が植えられており丁度満開と言っていた。二百五十種の桜、今年は二度のお花見を楽しんだ。松前城をバックに記念撮影。裏手に広がる寺町を散策、幕末の動乱の世界に生きた松前藩の歴史を語る
ガイドの説明に頷く。松前を離れて江差へ移動する。暫く雲が切れ雨は上がるが北の風は冷たい。建物が当時の繁栄を物語っている。北海道有形文化財に指定されている横山家、二百年以上の歴史があり代々受け継がれた鯡御殿当主からユーモアを交えた説明を聞きながら江戸時代の佇まいを見学。別棟にて昼食の鯡そばが江差の文化を伝えていた。後オランダで建造された幕府の軍艦開陽丸を見学、戊辰戦争で活躍したが暴風によって江差沖に沈没する、残されていた原図をもとに復元された。海底に沈んでいた
遺物を引揚げて展示されており幕末の歴史を今に伝えていた。追分会館にて正調江差追分を聞き鯡漁全盛期の回船問屋「中村屋」を見学、江差追分と鯡の関わりを知り北海道の文化を肌で感じた二日目の旅であった。
 再び函館へ、湯の川温泉「若松」にて旅装を解く。景観食事対応共に申し分なし。今回の行程は残念乍ら体調不良で参加出来なかった幹事の小池弘蔵さんの計画とか、早く元気になってと願い感謝する。評判通りの宿で今日の疲れをほぐす。夕食時十年目、五年目の参加者と、特に全回皆勤の田中八重子さんにそれぞれ貞真上人より記念品が贈られてその努力を称える。

山海の珍味にも舌鼓、二日間の疲れも忘れて賑やかに親睦を深める。予定時間を繰り上げて函館山(海抜三三四メートル)の展望台から夜景を楽しむ為にバスで出発、外は雨も上がり冷え込んでいる。
名ガイドの説明によると今夜は最高の条件とか、期待をすること三十分、急坂な山道周辺は真の闇、ベテランドライバーの金沢さん、熟練した運転テクニックで展望台に到着する。ナポリ、香港と並んで世界三大夜景の一つと呼ばれ、余りの素晴らしさに思わず息を呑む。寒さは厳しいが最高の
ハイライトを満喫することが出来た。三日目の朝食後、若松を後に名物函館朝市に足を運ぶ。北の海は魚の宝庫、所狭しと並べられている新鮮な魚介類に満足しお土産を求めて朝市を楽しむ。北国の春は遅い、行く先々で桜が迎えてくれる。黒船来航から始まった幕末の動乱、政府軍と最後の
戦の場となった函館五稜郭もソメイヨシノが咲き誇り星のように広がり二度目の春爛漫を満喫する。
激しい攻防の末、土方歳三が戦死、幕府軍は降伏する。見果てぬ夢の象徴でもある五稜郭は歴史の語り部として後世に伝えている。旅も終わりに近づき国定大沼公園に立ち寄る。活火山駒ケ岳を正面に臨み手付かずの
自然が残されている。夏の味覚、じゅん菜の宝庫でもあり冬にはワカサギ釣りを楽しむ人々の憩いの場所、湖畔の小さなレストランでランチタイム。静かな湖を遊覧船で一周する。

あっという間の三日間、北辺の布教の地に参拝でき、嬉しかった。
本山巡りの旅も未だ道半ば、これからも是非参加が出来ることを願い、お世話になった皆様に感謝して家路に着く。
<檀家・泉澤慎吾いずみざわしんご>

新春初参り

平成22年1月7日(木)
当山の新春初参りは毎年1月7日、大本山中山法華経寺並びに日蓮宗加行所(大荒行堂)、近隣寺院を参拝しています。
今年は56名参加。朝八時に浦安をマイクロバスで出発。先ず法華経寺をお参りしました。法華経寺祖師堂は上の写真のように変わった屋根の造りで、比翼入母屋造りと云われ、国の重要文化財に指定されています。次に荒行堂で今回五百日目の荒行に入行した流山成顕寺・宮崎聖弘上人の御祈祷を受けました。その後、東関東自動車道を成田方面に走り、多古町にある本山・日本寺をお参りしました。
日本寺は「中村檀林」の跡で、「檀林」とは僧侶の教育機関、今で云う大学です。日本寺の中村檀林は同じく千葉県内にあった飯高檀林・小西檀林と並び、関東の三大檀林として日蓮宗教学の根本道場として栄えました。当日は貫首様始め総代役員の方総出で私達一行をお迎え頂き、境内、諸堂をくまなく御案内頂きました。

富士・韮山方面参拝の旅

平成21年5月11日~12日 泉澤慎吾
首都高から都心のビル街を右に見て左にもやに霞む東京湾を眺めながら、幸先の良い十六回目の本山巡り、信仰の旅のスタート。車内はいつもと同じ和気あいあいの楽しい雰囲気。東名から西富士道路へ入る。
移りゆく車窓から残雪光る富士山が見えてきた。宝永年間に大噴火があり、宝永山が出現し、又大沢くずれが発生した。自然の脅威、富士山の歴史を語るガイドさんの名調子に暫し耳を傾ける。

【富士山久遠寺】

午前七時、御住職に見送られ江川橋際を出発して三時間、最初の参拝寺院「富士山久遠寺」に到着する。建武元年(一三三四)正月、日蓮聖人の法孫日郷上人によって、六老僧日興上人の遺志を継いで開かれた由緒本山。富士五山の一つ。日興上人の法脈を継承する一寺として知られる。宗祖在世中より日興上人はこの地を「小泉村は仏法有縁の地」と言われて嘱望し、弘長元年(一二六一)より開教に努められ、既に小泉法華講が出来ていた。然し、度重なる火災に遭い本堂始め伽藍の大半が焼失、再建するも明治元年に客殿始め五棟が再び罹災。その後再建し、客殿は昭和二十七年に完成、実に八十五年振りのこと。
本堂に於いて御開帳、お題目を唱え合掌。お上人に案内され、宗門随一と云われる大太鼓を見学。直径一メートル四〇、重さ一トン二〇〇、とてつもなく大きい。ご好意で一人ずつ打たせて頂いた。
その響きは体中に染み渡り、身も心も洗われる様な感動を覚える。

【北山本門寺】

山門から見る素晴らしい富士山に見送られ久遠寺をあとにする。富士宮市内の蕎麦の老舗「美やじま」で昼食、駿河湾名産、旬の桜海老の天ぷら、名物の手打ちそばに舌鼓、食後一休み後出発。市内の「大本山富士山本門寺」を参拝する。「北山本門寺」とも呼ばれ、七百有余年の昔、日興上人により開創された。永年富士門流の総本山であった。現在では日蓮宗大本山に列せられている。宗祖入滅後、身延山を本拠地として甲斐駿河の伝道に当たられていたが、正応元年(一二八八)宗祖七回忌の後、身延を下山、富士山裾野に広がる大石ヶ原に草庵を結ぶ。その後、重須石川能忠・上野南條時光の両地頭より土地の寄進を受け、上野及び小泉法華講の協力を得て、霊峰富士を望む重須の地に永仁六年(一二九八)、日蓮聖人御影堂・本化垂迹天照神宮・法華本門根源の三堂を建立。寺域六万坪を領し「本門戒壇建設発祥の地」として後進の指導育成に努め八十八歳で遷化されるまでお題目の流布に力を注がれた。当寺は多くの宝物を伝え、中老僧日法上人が
彫刻された「生御影御尊像」は当山第一の霊宝として本堂に安置されている。寺内には日興上人お手植えの幹回り七メートルもある巨杉が七百有余年の間風雪に耐え「題目杉」として現存している。徳川家康ゆかりの「鉄砲の御本尊」は、家康、武田攻めの際、日蓮聖人の御本尊をお守りとして借用したところ、相手の弾がお守りに当たり難を免れたと伝えられる。このお礼として北方八キロメートルから水路を引き本門寺堀として現在でも重要な灌漑用水路として利用されている。参拝の後、案内されて今でも当時と変わることのない澄んだ雪解け水が勢いよく流れる「本門寺堀」を見学。昭和五十九年再建された往時の威容をしのばせる
仁王門前で記念撮影、富士宮をあとにする。

【修善寺温泉】

沼津インターから国道へ入り今日の宿泊地修善寺温泉に向う。山あいに、自然に囲まれた八千坪の敷地の中にこじんまりしたいやしの宿、渡月荘金龍宙(そら)に到着。先ずひと風呂浴びて手足をのばす。程なく夕食タイム、十五回参加者三名を含む永年参加者に貞真上人より記念品が贈られて、その努力を称える。「継続は力なり」あらためて私も頑張る気持が湧いてきた。大塚義教総代の挨拶に続いて、今日一日を振り返りながら懇親を深め、明日も楽しい参拝の旅になることを祈る。山の朝は静寂、温泉の流れる音のみ聞こえている。夜明けに
幻想的な「光の野天風呂」に身を沈めて自然を満喫。朝食後出発、残念ながら雲が低い。

【本山本立寺】

日蓮聖人伊豆法難ゆかりの本山、韮山の大成山本立寺(江川家の菩提寺)を参拝。伊東に流された日蓮聖人と出会った江川家十六代江川太郎左エ門英親は、その教えに深く感銘を受け帰依し、在家のまま弟子となる。永正三年(一五〇六)二十四代英盛は江川邸の大乗庵を移築、本立寺を創建する。本堂の裏手は江川家累代の墓所となっている。寺内には鎌倉東慶寺(駆け込み寺)元徳四年(一三三二)銘の
梵鐘(県指定文化財)が伝わっている。お題目を唱え合掌、後、客殿にて湯茶の御接待を頂く。本立寺では境内の整備を行っており、献木の寄進を受け付けていたので趣旨に賛同し協賛する。次回機会があって再び参詣の砌には、成長した満開の紫陽花、秋には紅葉が出迎えてくれるのではと思いながら下山した。

【いやしの里根場】

予定の時間を少しオーバー、西富士道路から河口湖畔を目指す。裾野に広がる緑のじゅうたん朝霧高原、パラグライダーはじめアウトドアを楽しむ若者、車はスピードアップして進む、のんびり寝そべっている乳牛の群、車が近づくと道路際に集まってくる。先程まで隠れていた富士山が姿を現す。目前に観る富士山さんは息をのむ美しさだ。「西湖いやしの里根場(ねんば)」に到着。
「石挽き手打ちそば松扇」にて昼食。旨い!の一言。全国でも上位にランクされている蕎麦の名店。食後「いやしの里」を散策する。茅葺屋根の集落、昔ながらの水車、庭には大きな鯉のぼりが威勢よく泳ぎ散策する人を楽しませ、武田信玄由来の伝統工芸、西湖根場の歴史、文化の紹介あり、懐かしい日本の姿があった。

【結び】

予定を少々過ぎて帰路につく。青木ヶ原の樹海を抜け、富士に別れを告げて中央高速へ入りスピードを上げる。途中、談合坂にて休憩。心配された渋滞もなく首都高からレインボーブリッジを渡ると間もなく浦安。今回も各本山の歴史を遡り、新しい発見があり、実り多い二日間であった。この度「宝輪トラベル」の添乗員伊藤さんのきめ細やかにお世話を頂き楽しみも倍増した旅であった。心から感謝し、
又来年も参加出来ることを祈りながら家路につく。
 合掌  <檀家・泉澤慎吾いずみざわしんご>

新春初参り

平成21年1月7日(水)
恒例の新春初参りです。参加者60名。
コース:中山法華経寺~大荒行堂~柳島妙見様・法性寺法華経寺祖師堂にてお開帳、大荒行堂では第参行の渡辺勝広上人の御祈祷を受けました。大勢の荒行僧に囲まれ読経の声と木剣の大きな音に身も心も洗われるようでした。その後、法華経寺の大客殿にて昼食を食べ、墨田区にある柳島妙見様・法性寺へ。
法性寺でも妙見様御宝前にて東京東部宗務所長でもある御住職・鈴木良敬上人の気迫のこもった善星皆来の御祈祷を受け、おいしい甘酒を頂きました。

和歌山・大阪方面参拝の旅

平成20年5月14日~16日  泉澤慎吾記
日蓮宗本山巡り参拝の旅も十五年目になる。今回は和歌山・大阪方面の本山をお参りすることになり、曇空の都心を抜けると箱根の山並みが遠くにかすみ、天候に不安を感じながら、のぞみ1号で西へ向う。浜名湖を過ぎ、名古屋へ入る頃は天気も快復、新大阪へ到着すると五月晴れが一行三十一名を歓迎してくれた。阪和自動車道を通天閣、国際空港を右に見て「だんじり祭」で有名な岸和田を経て、和歌山市吹上に位置する「白雲山報恩寺」に到着。

【報恩寺】

慶長十四年(一六〇九)要行院日忠上人が一宇を建立、要行寺と号したのが始まり。徳川四代将軍家綱公のころ、「養珠院お万の方」以来法華信仰に縁深い家柄となった紀州徳川家の菩提寺。寛文六年(一六六六)に紀州藩祖・徳川頼宣公夫人で加藤清正公の五女八十姫こと瑶林院が亡くなられた時、夫人の愛した城南吹上の地、要行寺に葬った。その後、寛文九年二代光貞公が母の追善の為、要行寺を「白雲山報恩寺」と改め諸堂伽藍を整備、寺領二五〇石を寄進し大いに栄えた。明治維新の際、諸堂が破壊され明治十一年に復興、本山に列せられたが、昭和二十年、先の大戦で灰尽に帰し、苦難の末仮本堂を再建、昭和三十六年には心無い者の放火により全焼と、幾度の災厄を受け、昭和四十一年、本堂を再々建し、現在も僧俗一体となり諸堂の整備に努められている。本堂に案内されお開帳が始まり、合掌しお題目を唱える。客殿にて休憩、昼食を頂いた後、貫首様より重要文化財に指定されている徳川家の霊廟、梵鐘、平素は開門することのない菊のご紋の御成門等、ご案内をして頂き、特に請われて大塚総代さんが鐘をつく。四百年の時を越え、その音は歴史の重みを感じさせる。報恩寺の皆様に見送られ、山門をあとに和歌山城へ。

【和歌山城】

天正十三年、豊臣秀吉が弟の秀長に命じて築城させたもの。昭和二十年戦火の為焼失、のち市民の熱い希望により昭和三十三年復元。長い坂道を登り天守閣へ。望楼から眺める大阪湾、和歌山の街並や淡路島。素晴らしい景観が広がり疲れを忘れさせてくれる。

【加太温泉】

和歌山市内を抜けて加太海岸沿いの吾妻屋シーサイドホテルに到着。近くの淡島神社を参拝、雛流しが有名で、子授け、安産祈願等、近在の人々の信仰を集めている。一風呂浴びて手足をのばす。刻々と沈みゆく夕日を眺めながらの夕食は格別、茜色に染まる空と海、旅ならではの景色だ。寄せては返す波の音で朝を迎える。
朝食後、加太海岸を離れ、大阪は堺の妙国寺へ。

【妙国寺】

永禄五年(一五六二)仏心院日珖上人の開山。阿波国讃岐より兵を起こして畿内を支配していた三好豊前守より東西三丁南北五丁にも及ぶ広大な土地を寄進され、日珖上人の父、堺の豪商油屋常信と兄の常祐の協力で堂塔伽藍を建立寄進され、皇室より勅願所と定められた。元和元年(一六一五)大阪夏の陣の戦火を受け全焼、宝永五年(一六二八)再建され歴代によって整備されてきたが、昭和二十年の戦火で再び焼失。昭和四十七年に漸く復興した。本堂にてお開帳後、宝物殿に案内して頂いた。安土桃山時代から幕末に至る様々な貴重な展示物を拝観してあらためて妙国寺の激動の歴史を感じた。又山内には三好家から寄進された「大蘇鉄」(樹齢一一〇〇といわれる)がある。
天正七年(一五七九)、天下統一を志した織田信長、この蘇鉄を安土城に移植せるも、毎夜「妙国寺へ帰ろう」と怪しげな声に激怒、部下に命じ、切らせたところ鮮血が流れたので、さしもの信長も怖れ、再び妙国寺へ戻された。日珖上人、枯死寸前の大蘇鉄を憐れと思い法華経一千部を誦し、鉄くずを与えたところ蘇生したと伝えられている。又幕末攘夷論
いまだおさまらない慶応四年二月十五日、堺を警備する為妙国寺に駐屯していた土佐藩士と、堺港に入港していたフランス軍水兵との間に起きた堺事件。その責を負って割腹し果てた土佐藩士十一名の悲話も伝えられている。今を遡ること百四十年前のことである。
本堂前にて記念撮影をし、戦国動乱の時代に舞台となってきた妙国寺に別れを告げ、大阪道頓堀の「くいだおれ」にて昼食、さすが大阪きっての繁華街、人、人、人・・・の波。
七月八日で閉店とか馴染みの客で店内はごったがえしていた。帰りに旅行幹事の小池さんに法善寺横町、水かけ不動を案内してもらい、尼崎広済寺へ向う。

【広済寺】

別名、近松寺とも称されている。正徳四年(一七一四)日昌上人、尼崎城主松平家の協力を得て由緒ある源氏の「多田満中」勧請の妙見宮を法華道場として再興、この時、建立発起人として大きく貢献したのが東洋のシェイクスピアと称された文豪、近松門左衛門である。
時に日昌上人四十八歳、近松門左衛門六十二歳。本堂で読経、お題目を唱え、本堂脇に眠る近松のお墓(昭和四十一年国の史跡指定)にお参りをする。本堂裏手六畳二間の部屋で七十二歳の生涯を閉じるまで、幾多の名作を書き続け近松文学を世に表した。

【有馬温泉】

二日目は、六甲山脈に寄り添うように広がる日本三大温泉の一つ、有馬温泉向陽閣で旅装を解き疲れを癒す。夕食の前に、十五回一度も休むことなく参加されてきた田中八重子さん、小池弘蔵さんのお二人に、貞真上人より記念品が贈られる。
「継続は力なり」のお二人に拍手。食事に移り和やかな時を過し親睦を深める。山脈に点在する旅館のあかりがきれいな夜だった。東の空が明るくなり澄み切った朝を迎える八時三十分出発タイム、豪華な風呂・美味しい料理に少々去り難い朝だ。

【震災記念公園・異人館】

神戸垂水ICから吊り橋としては世界一を誇る「明石海峡大橋」を渡り淡路島へ。平成七年一月十七日午前五時四十六分阪神淡路を襲った震度七、三の大地震、亡くなった人六四三八人、戦後最大の被害をもたらした災害の記録を残す「北淡震災記念公園」を見学。「野島断層」が一四〇メートルにわたって当時のまま保存され、余りの凄まじさに只々驚くのみ、いまなお自然の脅威を如実に語りかけている。あれから十年、被災地も復興し、おだやかな生活を取り戻しつつあるとはいえ、まだまだ不安を抱えての生活に思いを寄せながら、再び神戸へ。六甲山脈を貫く全長8キロにも及ぶ舞子トンネルを抜け、震災前と変らぬまでに復興した神戸三宮へ。途中のビルの大時計が五時四十六分で止まっていたのが印象的だった。北野異人館を見学、明治中期の建築物(重要文化財)
のベランダからは神戸港まで見渡せる素晴らしい眺望が広がる。

【結び】

旅も終りに近づき、天気に恵まれ事故も無く参拝を続けることができた。新神戸より「のぞみ」で東京へ。三日間を振り返り、あらためて法華信仰の歴史を学び、時の流れを感じ、震災のつめ跡に思いを寄せる有意義な旅であった。これからも本山を始め日蓮聖人ゆかりの由緒あるお寺を知ることは大切なことであり、出来得る限り参加したいと思っている。
お世話になった皆さん、ありがとうございました。
 合掌  <檀家・泉澤慎吾いずみざわしんご>

新春初参り

平成20年1月7日(月)新春初参り
毎年恒例の大本山中山法華経寺と大荒行堂を参拝。
大荒行堂では全堂代表の爪田栄成上人導師の下ご祈祷を受け、谷中にある本山瑞輪寺を参拝した。

新潟参拝の旅

平成19年4月11日~12日 
宿泊:蓬平温泉 和泉屋 42名参加 記 泉澤慎吾
関越トンネル(11キロ)を抜けると景色が一変し、残雪の山なみが目の前にひろがる。正福寺恒例の本山巡り十四回目の参拝の旅。四十二名の参加者と共に春を待つ越後路を秩父連山、赤城、榛名の山々を遠くにのぞみながら一路北へ・・・。

【妙法寺】

湯沢を過ぎ、信濃川を越えて新潟へ入り、長岡市村田の本山・法王山妙法寺に予定通り到着する。桜がまだ五分咲きの参道を通り本堂へ。ご高齢とお見受けする貫首様に迎えられ、ご挨拶ののち、読経が始まる。お題目を唱え、お焼香を済ませて後、貫首様より妙法寺についてお話をして頂く。  妙法寺は、六老僧の一人、日昭上人によって開創され、当時越後の大守風間信濃守信昭公、幼い時に鎌倉にて日昭上人の教えにふれ、その法力によって長寿を保ち、それが縁となり、上人の一字をもらって「信昭」と号したと伝えられている。以来、日昭上人の外護者となり、宗祖二十五回忌に当たり相州名瀬に妙法寺を開いたが、北越の地に法華の道場がない事を憂い、日昭上人、元亨三年(一三二三)百三歳で入寂の年、「名瀬」の寺を「村田」に移し、北陸道における仏法興隆をはかり、日昭門流の拠点となった。以後、風間氏より寺領三百五十石を寄進され、一宗の本山としての寺格を整えるに至る。その後、明治に入り戊辰戦争で二天門、七面堂以外全てを失ってしまったが、明治十七年より末寺二十九ヶ寺、檀信徒の協力により本堂、千仏堂、客殿、書院を再建し今日に至っている。記念撮影をし、歴史を物語る二天門をあとにする。参道に水芭蕉を見つけ春の足音を感じつつ次の予定地へ。

【番神堂】

原子力発電所で有名な柏崎市刈羽を右に見ながら、田植えの準備が進む静かな農村地帯を抜けて、昼食場所のレストラン「キーウエスト」へ。
昼食後、日蓮聖人ゆかりの地、柏崎番神堂へ向う。文永十一年(一二七四)佐渡配流を赦された日蓮聖人が佐渡を発ち、寺泊へ向う途中、嵐に遭い、流れ着いた所が日本海に突出した現在の番神岬。無事上陸出来たのは、八幡大菩薩の御加護と感謝し、八幡大菩薩を中心に三十番神を祀ったのが番神堂の始まりと伝えられる。古色蒼然とした宗門史跡、本堂において御開帳、お題目を唱える。
その後、ご住職よりお話を頂いた。番神堂は、明治四年の柏崎大火で類焼。その後、明治十一年に再建。入母屋造り、名工の手になる見事な彫刻がはめ込まれている。特に「獅子頭の蝶」を見つけると幸せになると言い伝えられており、私共一行も目を凝らして探し、やっと見つけることが出来た。
民謡の三階節にも謡われている番神堂。眼下に柏崎港を見下ろす高台の一角に与謝野晶子の文学碑も建てられていた。
番神岬の日蓮聖人銅像、青い海、澄んだ空、遥か水平線に浮かぶ佐渡島、七百年の歴史を感じ、今も変らぬ自然の美しさに時の経つのも忘れる。この素晴らしい景観の保全に取り組んでおられる方々に心から感謝し、
ご住職に見送られて再び長岡へ。

【蓬平温泉】

平成十五年十月二十三日、中越地方を襲った大地震は未だ記憶に新しい。生々しい傷跡の残る山肌をぬって蓬平温泉、被害から立ち直り営業を再開した和泉屋に旅装を解く。
まだ雪の残る山あいの温泉場、一風呂浴びる。
日本海の旬の魚、日本一の魚沼産コシヒカリ、食欲倍増の食膳が疲れを癒してくれた。翌日、東の空が少し明るくなる頃、上弦の月が山の端に消えてゆく、山ならではの夜明けを堪能する。朝食後出発、国の重要文化財「目黒邸」を見学。寛政九年(一七九七)の建築物、中世武士の系譜をひくといわれる豪農の館。古文書や大庄屋の生活用具等、豪雪地帯での暮らしを知り、現代に伝えられる江戸時代の農村文化に触れることが出来た。小出、湯の谷を過ぎ、八海山の麓にある八海山尊神社に寄り、日本一といわれる石の大鳥居をくぐり山岳信仰の名残をとどめる山伏の足跡を訪ねる。予定をややオーバー、国道17号線沿いの「そば処田畑屋」にて名物の「へぎそば」に舌鼓をうつ。
一休みの後、途中「魚野の里」にて越後の名産品をお土産に物色。宅配を頼む人、大きな袋を持ち込む人、旅ならではの出発タイムまでの賑やかな一コマ。あらためて今回の旅を振り返り、刻まれた歴史を学び、人と人との触れ合いの大切さを知る心安まる二日間の旅であった。思い出をいっぱい作り、再び関越トンネルを抜けて浦安へ。
お世話になったみなさん、ありがとうございました。
  合掌 <檀家・泉澤慎吾いずみざわしんご>