平成19年 新春初参り

平成19年1月7日(日)
今年は恒例の中山法華経寺と荒行堂、そして上野アメ横の中にある摩利支天徳大寺をお参りした。参加者73名、マイクロバス4台に分乗し、朝8時、毎年お決まりとなっている集合場所の江川橋を出発。道が空いていたため、30分で中山に着いてしまった。今年は暖冬だが、中山は浦安より幾分温度が低く寒い。祖師堂が開く9時までバスの中で待機し、御開帳を受けた後、聖教殿を参拝。聖教殿は荒行堂の水行場のすぐ横にあるので、荒行僧の唱える水行肝文と水しぶきの音が身近に聞こえてきた。
荒行堂では、300日目の荒行に入っている地元松戸出身の中村方謙上人を導師に沢山の荒行僧に囲まれ、気迫のこもった御祈祷を受けた。その後、法華経寺の客殿をお借りして、お弁当を食べ、12時過ぎに上野摩利支天に向って出発。
摩利支天徳大寺では、先ず寺院の景観に皆がビックリ。アメ横の商店の上に立派な伽藍がドーンと建っているのだ。徳大寺では、御開帳の後、ご住職より干支の話を中心に法話を頂き大変ためになった。特に意識しないで計画をしたが、摩利支天像が今年の干支の猪の上に乗っていることや、今年の大河ドラマの山本勘助の守護神が摩利支天であったりと、今年の初参りはなかなかタイムリーであった。

平成18年 新年初参り

平成18年1月7日、大本山中山法華経寺と荒行堂、茨城県常陸太田にある本山久昌寺を参拝した。参加者は68名、朝8時にマイクロバス3台で浦安を出発。先ず、荒行堂にて第四行に入行している流山成顕寺宮崎聖弘上人の御祈祷を受け、法華経寺祖師堂で御開帳をして頂いた。午前11時に中山を出発、常磐道経由で午後1時半に久昌寺到着。本堂で御開帳、その後、客殿にてご丁寧なご接待を頂いた。特に久昌寺の日蓮聖人像は坐像ではなく、椅子に腰掛けて御説法をされているのが印象的だった。距離的に日帰りはきついかと思ったが、午後6時には浦安に帰って来る事ができた。

九州参拝の旅

平成十八年四月二十五日~二十七日 泉澤慎吾記
羽田を発って一時間半。快適な空の旅も一息入れる間もなく福岡到着。出迎えの観光バスで、三日間の九州方面参拝の旅の始まりです。 飛行機から富士山がきれいに見えました

【日蓮聖人銅像】

心配された天気も上々。南国の日差しを浴びて出発。福岡東公園の一角に、全長十メートル、重さ七十五トンというとてつもない大きな日蓮聖人銅像。蒙古の方を向き左手に立正安国論、右手に数珠を持ち、玄界灘の海風に法衣をひるがえし海の彼方の人々に法華経を説く姿。台座の正面に「立正安国」の文字、
周囲には七枚の銅版の法難図がはめ込まれ、その周りをお百度を踏む人々が絶えないそうだ。
全員でお題目を唱え、法難図を手で触りながら周囲を廻った。

【大宰府天満宮】

「東風吹かば・・・」の歌で有名な菅原道真公。延喜三年(九〇三年)、ここ大宰府でその生涯を閉じた。道真公は学問の神様といわれ、天満宮は道真公をお祀りしているので、受験生や修学旅行生で賑わっている。お参りの後、名物の「梅ヶ枝餅」を売るお店が軒を連ねている参道を通り、大宰府をあとに佐賀県小城市に向かった。

【光勝寺】

鎮西本山松尾山光勝寺は、開山当初、千三百町歩、十万石の格式をもっていたが、現在では五町歩を残すのみ。しかし、七堂伽藍、二十七棟の建造物があり、日蓮宗九州唯一の本山。文保元年(一三一七)、下総の千葉胤貞公が創立。開山上人に中山法華経寺第三世日祐上人を迎え、十四世までは中山法華経寺と両山一主制だったが、十五世に初めて専任の住職として、久遠成院日親上人(鍋かむり日親上人の名で有名)を迎えた。日親上人は十九歳の若さで布教に力を注ぎ、九州一円に教義を弘めたので、西日本の多くの寺院が開山に日親上人の名を伝えている。慶長年間、公が肥前鍋島堂宇の朽廃を嘆き、総けやき造りの十間四面極彩色の本堂、九間・十九間の講堂を再建寄進されたのが現在のもの。読経後、執事長より千葉氏と光勝寺のいわれについてお話があり、大変興味深く聞くことができた。
湯茶接待を頂き、本堂前で記念撮影の後、今日の宿泊地、玉名温泉へ向かう。

【本妙寺】

翌朝八時半、玉名温泉を出発、熊本市へ移動。本妙寺は加藤清正公が父清忠の菩提の為に創建、京都から発星院日眞上人を
迎えて開山したのが始まり。天正十三年(一五八五)のこと。
熊本城の築城のみならず、すぐれた土木技術を使っての新田開発、堤防を築くなど多くの恩恵を残した為、肥後の人々から清正公さんと呼ばれ親しまれていた。清正公は深く日蓮宗に帰依し、母伊都の菩提の為に池上本門寺の祖師堂を建立(宝永年間に焼失)、又本門寺正面の九十六段の石段も清正公の寄進によるものだ。熱心な法華信仰を貫くも、享年五十歳で病のため逝去。拝殿で清正公の御開帳後、宝物館を見学、戦国に生きた武将の信仰心に感銘を受け、石段を下る。坂下には色鮮やかなツツジが満開の境内、緑に囲まれた本堂を参拝して、本妙寺をあとにする。

【水前寺成趣園】 長寿の水

東海道五十三次を模したといわれる桃山様回遊式日本庭園・水前寺成趣園を見学。細川歴代藩主を祀る出水神社を参拝。境内には年中枯れることのない湧き水「長寿の水」がある。百薬の長として多くの人々に親しまれている
ということで、私も一杯いただく。

【黒川温泉】  宿・黒川温泉奥の湯

小雨が降ってきた。熊本城を見ながら市内を抜けると、西南の役の激戦地、田原坂が近づく。英雄西郷隆盛の最後の悲劇を伝える場所として有名な所だ。阿蘇の外輪を通り過ぎて行く。深い霧がかかり、天気がよければ素晴しい山の景色、と思うと少し残念。程なく黒川温泉へ。道が狭いので、迎えのワゴン車に乗り「奥の湯」に到着。聞こえるのは渓流のせせらぎだけ。窓の外は立ち昇る湯煙、山一面をおおう霧、まさに山間の秘境。夕食はイワナの焼物、さくら肉(馬刺)、山菜の天ぷら、旬の竹の子等等、山なればこその貴重な食材が、お膳を賑やかにしてくれた。明くる朝は、早めに起きて散策。澄んだ山の空気がひんやり心地よい。

【湯布院~別府地獄めぐり】

翌朝は9時に黒川温泉を出発、湯布院を目指す。「九州は日本史のふるさと」と云われる如く、ガイドさんの興味深い説明が続く。窓外を通り過ぎていく世界有数のカルデラ地帯(阿蘇盆地)、間もなく由布岳(一五八四メートル)が目の前に広がる。キリシマツツジが群生し、六月中旬になると、一面紫紅色の花園になるという。金鱗湖を散策、湯布院民芸村を見学し、別府地獄めぐりへ向かう。大分県の温泉源は全国の三十%を占め、別府は温泉の都といわれ、その湧出量は世界第二位にランクされているそうだ。疲労回復に効能がある
というので、しばし足湯を楽しんだ。

【富貴寺】

血の池地獄をあとにすると、観光物産店に立寄り、九州名物を買い求めて大きな袋を手に車中へ。旅も終りに近づき、周防灘を臨む豊後高田に位置する富貴寺に到着。歴史を感じる長い石段を上り、平安時代に造られた阿弥陀堂(国宝指定)の中には、藤原末期(八百年代)の作といわれる阿弥陀如来座像(重要文化財指定)が安置されている。特に堂内の壁画は平安の三壁画の一つに数えられ一二〇〇年前の素晴らしい文化に触れることができた。

これですべての予定を消化して、大分空港へ向かう。旅のまとめとして副住職より「いつどこにいてもお題目を唱えることの大切さ」についてお話があり、実り多い三日間の旅に大満足して帰路についた。お世話になった幹事さん、参加者のみなさん、ありがとうございました。
文章・檀家 泉澤慎吾

栃木・会津参拝旅行記

本山巡り参拝の旅も今年で十二回目を迎える。栃木・会津方面、初夏の東北路。五月十一日一行四十一名、正福寺ご住職に見送られ江川橋際を出発する。車は首都高速から東北道に入り一路北へ。心配された渋滞もなく、途中休憩を交えながら栃木に入り、羽生を過ぎ程なく佐野市の開本山妙顕寺に到着する。永仁二年〔一二九四〕、中老僧天目上人が下野の国で布教している時、唐沢城主の佐野家及び家臣の若田源五郎光盛が帰依し一宇を建立、天目上人を開山に仰いだのが始まり。永享四年(一四三二)、時の将軍足利義教公より寺領三百石を寄進され、永正四年(一五〇七)佐野家の祈願所となった。天正二年(一五四七)に火災にあい全山焼失、慶長七年(一六〇三)、唐沢城の春日山移築に伴い鬼門除けとして現在地に移るも寛成六年(一七四九)、再び火災にみまわれ現存する鐘楼のみ残しすべて焼失、現在の堂宇は安政二年の建立によるものである。寺宝には日向上人作になる祖師像、宗祖荼毘所灰及び御砕骨などがある。一同合掌しお題目を唱え御開帳が行われた。後、客殿にて湯茶の御接待をいただき次の目的地に向かって山門をあとにする。

 再び東北道を北進、遠くには雪解けの進む那須連山がかすんで見える。米所・栃木の穀倉地帯を過ぎると途中にのんびりと青草を食む若駒の放牧場が見える。白河を過ぎ、釈迦堂川を渡り須賀川の牡丹園に到着。東京ドームの三倍の広さの敷地の中に二九〇種七〇〇〇株の色とりどりの牡丹が今を盛りと咲き乱れている。園内を散策し、しばし目の保養をすることができた。
名残を惜しみながら牡丹園を後にする。
阿武隈山系の地下天然水を使用、享保年間より受け継がれた、その伝統の味、乙字亭の「そば御膳」に舌つつみをうち昼食をとる。俳人松尾芭蕉も足跡を印した須賀川の景観が素晴らしい。
再び車中へ。今夜の宿泊地磐梯熱海温泉へ向かう。
磐梯温泉「華の湯」に到着。旅装を解く、日没には未だ早い。大きな檜風呂に身体を沈め、のんびりと温泉を楽しみながら今日一日を振り返る。六時、宴会。大広間で、今年で参加数十回を迎えた池田、露木、佐藤の三氏に副住職より記念品が贈られた。全員で拍手、努力を讃え敬意を表する。乾杯の後、胸襟を開き、親睦を深め、時のたつのも忘れて楽しいひと時を過ごす。
早朝四時に目が覚め、お茶を飲みながら、澄みきった、深みを増した緑を窓から眺める。朝の景色がひんやりとして心地よい。朝食はバイキング料理に舌づつみ。九時、「華の湯」に別れを告げ49号線から磐越道に入り、車中で妙国寺についてお話を聞きながら会津へと向かう。

宝光山妙国寺は、会津若松市に位置し、白虎隊自刃の悲話を伝える飯盛山を臨む地。顕本法華宗の開祖、玄妙阿闍梨日什上人が生まれ、入寂した地に、高弟日仁上人が明徳三年(一三九二)開創した寺院である。又、妙国寺は白虎隊最初の埋葬地として知られている。飯盛山で自刃した白虎隊士の遺体が野ざらしになっているのを不憫に思った当時の妙国寺の住職が夜な夜な家族と共に墓地に運び埋葬し、手厚く供養した。現在の飯盛山に埋葬されたのは明治七年になってからである。御開帳の後、貫首様から戊辰戦争と妙国寺について興味深いお話を聞き当時を偲ぶ事ができた。 客殿にて頂いた自家製の漬物が大変おいしく、会津ならではの味であった。総けやき造りの本堂、欄間の彫刻が見事。朝夕会津平野に梵鐘の音が響き人々に安らぎをあたえている妙国寺を後に、白虎隊士の眠る飯盛山へ向かう。
白虎隊は、慶應四年(一八六八)、戊辰戦争の際に十五才~十七才の少年たちで結成された。戸の口原に出陣するも衆寡敵せず、飯盛山まで逃れてきたが、鶴ケ城に上る火の手を見て、もはやこれまでと全員で自刃する。この時、一人だけ蘇生し一命を取り止めた飯沼貞吉によって、後世にこの悲劇が伝えられるようになる。案内人の説明に胸が熱くなり、思わず涙したのは私だけではない。お線香を手向け合掌して弔う。墓前にて信行会による詩吟が朗詠される。題して「白虎隊」。参詣に訪れる人も静かに聞き入っていたのが印象的であった。その後、ゆかりの場所をたずねながらゆるやかな坂を下る。次いで、野口英世の生家を見学。保存状態が良いので二百年経た今も当時の姿が保たれている。会津磐梯山、猪苗代湖の大自然に育まれた世界の野口英世の壮大なドラマがここから始まったのである。午後三時半、すべての行程を終え会津に生きた人々の激動の歴史をふりかえりながら、帰途につく。(おわり)
 <文章 檀家・泉澤慎吾 いずみさわしんご>