母への感謝

正榴会  池田 肇
母は昨年の八月、三十三年間勤めた築地魚市場を退職した三ヵ月後に急死しました。
あまりにも突然でしたので、感謝の気持ちを伝えることができないまま、母は他界してしまいました。
 一周忌を迎え、改めて感謝の気持ちを母に伝えたいと思います。私の母は、いつも何事にも積極的に取組み、自分のことよりも、家族や友人をとても大事にする人でした。私がシングルファザーになった時も、母は孫たちの母として、時には怒ったり褒めたり、そして抱きしめて子育てに協力してくれました。
 私に対しても、母はいつも「前向き!前向き!」とポジティブにアドバイスをしてくれました。
子供たちはまだ半人前ですが、「トイレの神さま」を聴いて、涙を流す優しい姉妹に育ってくれて、本当に感謝をしています。
 そして今、私たち家族の合言葉は「前向きにガンバル」です。
一度しかない人生を一生懸命に生きた母の言葉を胸に、感謝の気持ちを込め、娘たちと毎日、南無妙法蓮華経とお題目を唱えています。
<檀家・正榴会・池田肇いけだはじめ>

私の震災体験と得た教訓

浦安市富岡在住 増田恒夫
私の家は富岡の中央公園の真ん前にあります。公園の桜が居間の硝子越しに眺められ、2階からはディズニーの花火見物が出来ます。昭和47年に建て、10年程前に半分だけ、地震に強いといわれる2×4で改築しました。
私は阪神淡路の震災後、関東にも震災は必ず来ると思っていましたので、改築の際に、家の2ヶ所に2畳と3畳の納戸を作って、倒れそうなタンスや本棚を部屋から納戸へ仕舞い込んでしまいました。普段良く使うタンスは背丈より低い高さの物で、良く居る場所には置かないようにしていました。(教訓1、倒れる危険が有る物は、倒壊防止するか、普段使わない部屋にまとめて置いておく事。)
3月11日、午後強い揺れが来ました。直感的にこれは大きい地震だと思いました。が、横方向の揺れだったので、関東大震災では無い。若しそうであれば最初は下から上への縦揺れが最初に来て、棚の中や上の物が落ちる筈だと思ったのです。強い横揺れは長く続き、1階の居間でテレビを座って見ていた私は、その姿勢のまま、室内を眺め、台所で引き出しが出たり入ったりするだけで、物の落ちる音や、割れる音がしないので、被害は小さいなと思いました。
第一次の揺れが少し納まり、2階にいた妻も下に降りて来ました。テレビが点いているので電気は大丈夫。「東北地方で大きな地震がありました。」とアナウンサーが言っています。ガスはスイッチでは着火しないので自動停止したと判断し、台所のドアを開けておこうと、それを明けた時に余震が来ました。一次と同じくらいの揺れです。
その瞬間、ドアの外にある車庫のコンクリート床と家の土台の隙間から、茶色い水と泥が30cm位吹き上げて来たのです。車庫の床は東西に浮かんだ舟のように揺れ、外塀との隙間、上水道の検針箱からも吹き上げて来たので、てっきり水道管が破裂したんだと考えました。隙間という隙間から吹き上げてくるので、どうしようもありません。
呆然と見ていただけです。これが液状化現象である事は分かっていても、実際に自宅がそうなるとは思ってもいなかったのです。余震が納まって来ると、噴出は止まりましたが、既に車庫と玄関先には20cm位の泥が溜まっていました。
 近所の人達が恐る恐る外に出て来て、中央公園の野球場の上を指差しています。鉄製の高い照明灯が斜めになり、震動の度に「ギーッ、ギーッ」ときしみ音を出しながら、今にも倒れそうに揺れています。中央公園沿いの道路は、隆起や陥没が起こり、公園入り口のコンクリートが割れて砂水が、こちらに流れて来てどんどん積もって行きます。
電柱も傾いています。自宅もそうですが、近所では外壁が割れたり、傾いたりしています。
 近所の一人暮らしのおばあさんが、避難袋を背に、「一人で家にいると怖くて、中央公園が避難場所だから」と公園入り口に来ています。しかし、もう一つの避難場所である富岡小中学校体育館に避難所が出来ているかどうかは分かりません。この泥道をそこまで行きなさいと言う訳にもいきません。公園内の集会所、老人会館も入り口の階段に泥が積もり、中の被害状態も分かりません。屋外に一人で夜明かしもさせられないと思っていたら、同じ班の老人クラブの仲間の方が「自宅に泊まりなさい。」と言ってもらえました。
(教訓2、あわてて外に飛び出さない。家の中の比較的安全な場所に避難する。揺れが止まってから動くが、余震に注意する。若し津波警報が出た場合の4階以上の高さがある緊急避難場所を決めておく。避難所開設には
時間(半?2日程度)が必要です。頼りになるのはご近所の力です。)
どうしようもないので、居間に戻るとテレビは「津波が押し寄せています。家や船が流されています。」といった映像を流していました。これは大変だ。あんな津波が来たら、浦安はひとたまりも無く皆流される。と思いましたが東京湾では津波の心配は無いと聞いたので、ひとまず安心しましたが、東北の三陸、仙台、福島に津波が次々に襲う映像は大災害になる事を予感させました。
 公園内の市非常倉庫に人が来て、運び出しをしています。話を聞くと、富小に救護所を作る中央病院のスタッフの方々でした。自動車が出払い、毛布とか簡易ベッドとかを手で運んでいるので、自治会のリヤカーを集会所から出して来て貸してあげました。泥道を引いて行かれるのを見て、有り難いと思いました。が、救護所開設情報は伝わりませんでした。
(教訓3、避難所、救護所は準備ができたら、防災無線等でアナウンスしてもらいたい。又は口伝えで町内に流さないと分からない。)
水道は出ませんでした。我が家では、ペットボトル2箱(12本)を常時、玄関に置いてあったのでなんとか2日位はしのげます。減ったら買い足していました。近所のスーパーも被害があった為閉店し、水を求める人が大勢いました。夕食の材料は、近所の八百屋さん、肉屋さんが開いていたので買ってきました。
 幸いにも何軒かは、蛇口が低い外水道からチョロチョロですが水が出ました。破裂により水圧が下がっていたのです。近所の水道管破裂により噴き出ている水も洗い物には使えます。ガスは非常用コックを再開すると使えました。自宅敷地内のチェックポイントは、水道、ガス、停電の場合は電気のメーターを見る事です。漏水、漏ガス、漏電していればメーターが回る筈です。もう一つ液状化では、下水(汚水)管の丸い蓋を、ペンチの柄で回して明けて、泥が詰まっていないかを調べる必要がありました。
(教訓4、水は大事です。飲料水の適量と風呂水の汲み置きは、是非しておいて下さい。ご近所の商店は大事です。普段からお付き合いしましょう。)
(教訓5、ガスは臭い時には使用中止です。家の外もチェックしましょう。非常時用には、カセットコンロとガスボンベを備えておきましょう。)
近所選出の市議会議員さんが来る。自治会長もハンドマイクで知り得た情報を、広い町内を徒歩で伝え回られていました。公園のトイレもアウトでした。「下水道が流れないので水洗トイレが使えない。」「明日にも非常トイレを設置します。」といった、三人コンビで富岡の復旧活動はスタートしました。役割分担は、①私が、近所が困っている事の情報を集める。②議員が、市の災害対策本部に伝え対策を聞く。③自治会長が、対策を住民に知らせる役目です。
知らせる手段は回覧板、掲示板をもっと有効に使えたらと思いました。
(教訓6、大災害の際は、防災知識を持った、動ける人が動くという流動的防災組織の作り方をして置く。誰が動けるのか、いざという場合は分からない)
富岡は高齢化が進んでいる地区ですが、中町では一番早く開発され、毎年、夏祭や、餅つき大会等でご近所の方が力を出し合うようになっていました。翌日から、自宅周りの泥掻きが始まり、3日程で一応片付きました。市内でも早い方だったと思います。泥は細かい砂粒で、乾くと埃になり、雨が降ると又流れ出し厄介な性質です。唯救いは、元は海砂なので塩分はあるが、毒性は無いと言う事です。しかし、今川、舞浜、弁天、高洲等被害の大きい地区は40?60cmも積もり、取り除くのにも一苦労だったと思います。しかし、震災直後から都内ホテルに避難し、片付けは市やボランティア任せという人もいたそうで、如何なものかと思われます。
(教訓7、普段から交流の盛んな地区は復旧が早い。)
この日はたまたま、娘は三鷹の方に朝から出かけていました。携帯電話は直後から不通となり、遥か遠方からの受信とメールの発信だけは出来ました。取りあえず171番でNTTの伝言ダイヤルにメッセージを入れておきました。テレビでは福島の原発事故情報と電車が不通の情報が流れています。7時頃、メールがまとめて受信出来、娘の安全が確認出来ました。娘はそのまま三鷹市の臨時避難所で一夜を過ごし、翌朝電車の開通で帰って来ました。
(教訓8、安否確認はメールに入れておくと、何時間か後に分かる可能性が高い。
帰宅困難な場合は、無理に帰ろうとせずに、緊急避難し電車開通を待った方が良い。他の人で6?7時間歩いて帰宅したとの話を聞きましたが、関東大震災であれば、帰路の危険性が大きいと思われます。)

 地震後、一番困ったのはトイレ、風呂でした。水は飲み物以外に、洗い物で意外に大量に必要です。口に入れる物を風呂水という訳にはいかず、近所の破裂した水道水を使う人が多くいました。
トイレも流すには、バケツ一杯の水をタンクに注ぎ足すか、勢い良くぶちまける必要があります。これも、外の下水本管があふれて来たら、即刻使用禁止です。非常用のトイレも防災用品では必要です。今回は翌日、住民で公園脇に市防災仮設トイレを設置しました。
住宅街では、トイレの設置場所も問題です。小公園とか、駐車場とか普段から決めておく事も大事です。臭いはそれほど発生しませんでした。風呂は堀江や江戸川区の銭湯や、大江戸温泉、ホテルの開放風呂、実家の
風呂等を使っていました。
(教訓9、井戸は大事です。近所に井戸が残っていたら保存しましょう。水や下水が使えない場合は利用出来ませんが、銭湯も大事な地区の財産です。)

復旧、復興ですが、地震保険は対応が早かったようです。家屋、家財の損害に支払われたと聞きましたが、火災に比べると金額は低かったようです。塀や車庫の被害は保険の対象外らしいので確認された方が良いと思います。浦安の古地図でみると、江戸時代から陸地であった所と、昭和の埋め立て地が液状化の境目になったようです。
埋め立ての工法にも問題があったという説もあります。り災証明の市の調査は1ヶ月後でした。液状化被害は、国の基準が無かった所、今回の浦安市で、家の傾き、沈下基準が出来ました。我が家は、2.6cm傾いたとの判定でした。液状化後の修復には、地盤を直す、土台を直す、建物を直す。の3方法があるそうです。
地盤は地域全体の合意で取り組まないと出来ません。土台は、ジャッキアップで持ち上げるのですが、地盤が緩い場合は、恒久的に大丈夫という保証はないようです。建物を直すのは、持ち上げクサビ等で傾きを補正する
ようです。これも恒久的とは行きません。液状化がある程度落ち着かないと、又傾いて来るそうです。
(教訓10、この際、古い家は耐震診断を受け、もう一度、地震耐久性を確かめ補強工事をした方が良いと思います。今回は震度5強でしたが、震度6を越えると、家屋の倒壊が増えます。持ち家は古地図を確かめてから。)
以上が、私の震災体験です。書いて見ると忘れた事が多いのに気付きました。皆さんも、得た教訓は書き留めておいた方が良いと思います。
 東北地方の津波被害者、原発の被災者の方々は、家、家族、財産の全てを無くされています。浦安は被害があったといっても、屋根があり、ライフラインは復旧しました。痛みはありましたがまだ恵まれていると思います。
 東北では、本格的な復旧、復興には10年以上の時間が掛かると思います。長く、自分が出来る少しの力を出して、
日本全体で支援を続けて行きましょう。
そして、忘れる前に、自分自身で次の大災害に備えましょう。
 <信徒・増田恒夫・ますだつねお>

ハクビシン再来

平成23年3月6日記
ハクビシンはジャコウネコ科の動物です。
イタチのようで鼻筋に白い線が入っていて一見かわいい。
ですが、ハクビシンに入られると…夜中、天井裏から足音が聞こえます。まるで子犬が走り回っているよう、あきらかにネズミではないな、という感じです。
一カ所で糞尿をするので、尿が漏れてきたり、天井が腐ってきます。ハクビシンは自然動物?ということなので捕まえるには県の許可が必要です。浦安ではハクビシンの駆除には助成がないそうなので、駆除から天井裏の清掃・消毒、屋根を塞ぐ工事までやると結構お金がかかります。
昨年11月23日の事です。真夜中、水の滴る音がしたので行ってみたら、庫裡の廊下の天井から、なんだか水が勢いよくこぼれ落ちていました。
間違いなくハクビシンのオシッコです。ここのところ天井から怪しげな足音がしてたんで心配していたのです。
平成19年秋にハクビシンを二匹捕獲して以来、3年振りのハクビシン来訪です。その時にハクビシンの侵入経路をくまなく調べ、隙間という隙間を全部塞いだのですが、今回駆除業者さんに調べてもらったら、誰も気がつきそうにない所に一カ所だけ隙間を発見しました。今回の作戦は、捕獲ではなく締め出し作戦、ハクビシンが侵入出来ないように徹底的に隙間を塞ぎました。先ずは、唯一ハクビシンの侵入経路とみられる隙間の周りに白い粉を撒きました。ハクビシンが出入りをしたらその粉を踏むので、足跡がつくのです。すべての天井裏に駆除剤を散布した数日後、出て行った足跡がついたので、その隙間を仮に塞ぎ、しばらく様子をみました。
天井裏から物音がしなくなったことを確認し、隙間を塞ぎ、天井裏を清掃、消毒をしてもらいました。これで落ち着いて眠りにつけることになったのですが、当山に入れなくなったハクビシンは何処に行くのでしょうか?ハクビシン駆除、地域で情報を密にして対策を考えていった方がいい問題だと思いますね。

新春初参り

平成23年1月7日(金)
今年は55名参加。朝8時に浦安をマイクロバスで出発。
先ず荒行堂で今回四百日目の荒行に入行した白山本念寺・浅井信英上人御導師のもと、大勢の荒行僧に囲まれ気迫のこもった御祈祷を受けました。
その後、法華経寺本院に上がり鬼子母神堂をお参りし、大客殿にて法華経寺貫首・新井日湛猊下よりお話を頂きました。

次なる目的地は、星下りの霊蹟で知られる厚木の本山妙純寺。
途中、東名の海老名SAで各々自由に昼食を食べました。
例年はお弁当ですが、たまにはこういうのもいいでしょう。
本堂にてお開帳後、妙純寺貫首・堀日賢猊下よりお話を頂き、その後客殿にて奥様より甘酒を御馳走になりました。とても美味しかったです。

沙弥校に行ってきました

平成22年9月21日記
三男の歩が池上本門寺の沙弥校に入りました。
長男一太、次男安人も小学五年の時に沙弥校に行ったので覚悟はしていたようです。
朝は5時に起床し、お経と法要の練習に明け暮れるわけですが、それよりも辛かったのは基本的な日常生活だったようです。とくに食事作法、先ずは嫌いな物も残さず食べるという事。
これは世間でも昔は当たり前でした。私も小さい頃は好き嫌いが多かったので、学校で給食後休み時間返上で嫌いな物とにらめっこしてた記憶があります。全部食べるまで遊ばせてくれませんでした。
あとは食後にたくあんを使ってお茶で食器をきれいに洗い、最後にそのお茶を飲むという事。
これは非常に苦痛だったようです。
現在、子ども達にこんなに厳しく生活指導してくれる場所は無いと思いますから、我が子に一度はこういう体験をさせておくべきだと思います。
かくいう私自身は中学二年で初めて沙弥校に行き、あまりの厳しさに途中で体調を壊し寝込んでしまいました。終了後の感想文を読ませて頂きましたが、「また来年も来たい」と言ってる子や、「仏様のお弟子なれて良かったです」という子もいて、さすが日常の教育が違うなぁと感心しました。
えっ、歩はどうだったかって?もちろん親の子ですもの!
もう、来年は行きたくない、
勘弁してくれ~、
と泣きがはいってました。

北海道 松前・函館方面参拝の旅

平成22年5月12日~14日 泉澤慎吾
昨夜からの小雨は夜が明けても止まず、気温も平年以下という低さ、十七回を数える恒例の本山巡りの出立日、少々旅支度に戸惑いを感じた朝だった。六時、バスで羽田へ、車中はいつもの顔なじみの方々ばかり、天候に関わりなく楽しい雰囲気に包まれていた。北海道松前法華寺参拝の空の旅、高度一万一千メートル雲海をぬけると青空が広がっていた。一時間程で函館空港に到着する。
渡鳥観光バスにて海沿いの国道を松前へ、天気がよくないので下北半島がかすみ、時折車窓に北の冷たい雨が光り、津軽海峡の白い波頭が見える。途中詩人石川啄木の坐像がおかれ、台座には句が刻まれていた。昭和二十九年九月沖合八百メートルの所で台風十五号によって青函連絡船「洞爺丸」が遭難、一五六三人の尊い命が失われた。五十六年前の大きな事故で
今でも記憶に新しい。海辺に建つ慰霊碑に車中から手を合わせ通りすぎる。北海道と本州を結ぶ青函トンネルが昭和三十九年に着工され、五三八五キロの世界最長の海底トンネルが完成する昭和六十三年のこと当時の
水中探査機が展示されていた。車は北海道最南端の白神岬を経て松前へ到着、昼食の後、道内に於ける日蓮宗宗門史跡、妙光山法華寺を参拝、御住職中里観正上人に迎えられる。御衣をまとい本堂へ、鐘の音に続き読経が始まる。北の大地でお題目を唱えることの意義をかみしめ、多くの先人達が布教伝道に力を尽くし、歴史に残された足跡を偲び合掌する。

中里上人のお話によると、生まれは浅草江戸っ子とのこと、縁あってこの地にてご住職となる日蓮宗六老僧のお一人「日持上人」を開基とし北辺の地を舞台に法華経を広める。今を遡ること七百年前、その後大陸に向かったといわれ海外伝道の始祖とも伝えられている。 鎌倉時代元弘元年の作で「日像」花押と「大覚僧正」の銘文のある日蓮聖人坐像は重要文化財に指定され法華寺寺宝として祖師堂に安置されて信仰をあつめている。
中里上人に見送られ法華経北の拠点である法華寺をあとにする。外はまだ時折降る雨、気温も低く寒さが厳しいが桜は満開を迎えている。明日天気の回復を願い予定より早く旅館に入る。いつも乍ら宝輪トラベル伊藤さんのきめ細かい対応によって楽しさも倍増、入浴の後夕食タイム。道南で水揚げされたウニ、アワビをふんだんに使ったお膳に満足し大いに盛り上がる。

早朝窓を開けるも小雨が少し残っているが元気に松前城の見学に出発、戊辰戦争の最末期旧幕府軍(新撰組土方歳三率いていた)と激しい攻防の舞台になった場所であり松前城周辺には八千本の桜が植えられており丁度満開と言っていた。二百五十種の桜、今年は二度のお花見を楽しんだ。松前城をバックに記念撮影。裏手に広がる寺町を散策、幕末の動乱の世界に生きた松前藩の歴史を語る
ガイドの説明に頷く。松前を離れて江差へ移動する。暫く雲が切れ雨は上がるが北の風は冷たい。建物が当時の繁栄を物語っている。北海道有形文化財に指定されている横山家、二百年以上の歴史があり代々受け継がれた鯡御殿当主からユーモアを交えた説明を聞きながら江戸時代の佇まいを見学。別棟にて昼食の鯡そばが江差の文化を伝えていた。後オランダで建造された幕府の軍艦開陽丸を見学、戊辰戦争で活躍したが暴風によって江差沖に沈没する、残されていた原図をもとに復元された。海底に沈んでいた
遺物を引揚げて展示されており幕末の歴史を今に伝えていた。追分会館にて正調江差追分を聞き鯡漁全盛期の回船問屋「中村屋」を見学、江差追分と鯡の関わりを知り北海道の文化を肌で感じた二日目の旅であった。
 再び函館へ、湯の川温泉「若松」にて旅装を解く。景観食事対応共に申し分なし。今回の行程は残念乍ら体調不良で参加出来なかった幹事の小池弘蔵さんの計画とか、早く元気になってと願い感謝する。評判通りの宿で今日の疲れをほぐす。夕食時十年目、五年目の参加者と、特に全回皆勤の田中八重子さんにそれぞれ貞真上人より記念品が贈られてその努力を称える。

山海の珍味にも舌鼓、二日間の疲れも忘れて賑やかに親睦を深める。予定時間を繰り上げて函館山(海抜三三四メートル)の展望台から夜景を楽しむ為にバスで出発、外は雨も上がり冷え込んでいる。
名ガイドの説明によると今夜は最高の条件とか、期待をすること三十分、急坂な山道周辺は真の闇、ベテランドライバーの金沢さん、熟練した運転テクニックで展望台に到着する。ナポリ、香港と並んで世界三大夜景の一つと呼ばれ、余りの素晴らしさに思わず息を呑む。寒さは厳しいが最高の
ハイライトを満喫することが出来た。三日目の朝食後、若松を後に名物函館朝市に足を運ぶ。北の海は魚の宝庫、所狭しと並べられている新鮮な魚介類に満足しお土産を求めて朝市を楽しむ。北国の春は遅い、行く先々で桜が迎えてくれる。黒船来航から始まった幕末の動乱、政府軍と最後の
戦の場となった函館五稜郭もソメイヨシノが咲き誇り星のように広がり二度目の春爛漫を満喫する。
激しい攻防の末、土方歳三が戦死、幕府軍は降伏する。見果てぬ夢の象徴でもある五稜郭は歴史の語り部として後世に伝えている。旅も終わりに近づき国定大沼公園に立ち寄る。活火山駒ケ岳を正面に臨み手付かずの
自然が残されている。夏の味覚、じゅん菜の宝庫でもあり冬にはワカサギ釣りを楽しむ人々の憩いの場所、湖畔の小さなレストランでランチタイム。静かな湖を遊覧船で一周する。

あっという間の三日間、北辺の布教の地に参拝でき、嬉しかった。
本山巡りの旅も未だ道半ば、これからも是非参加が出来ることを願い、お世話になった皆様に感謝して家路に着く。
<檀家・泉澤慎吾いずみざわしんご>

お寺の活性化~若者を寺に集める~

平成22年7月13日記
若い世代にドンドンお寺に来てもらって
お寺を活性化するにはどうしたらいいのだろう?
ということをここ15年くらい考えて、万灯講・正榴会を作ったり、陶芸道場やもちつきをしたり、自分なりにやってきてわたった事は、うちの寺の場合、お年寄りを大切にするという事でした。それと、最初から新しい行事を増やそうなんて大変な事を考えないで、今ある行事を工夫していこうと思いました。
お年寄り中心のお経をあげる信行会活動を工夫することによって、子どもや孫関係、そしてそのお友達と輪が広まってきました。でもさっきから、お年寄り、お年寄りってずいぶん失礼な言い方をしてます。
お年寄りだって若者と一緒に万灯の太鼓叩くし、酒も飲むし、歌も歌うし。お寺の活性化は、お年寄りの活性化からです。
うちはまだまだです。

田中麻子展~鉄による彫刻作品展~

平成22年5月27日記
人形町ヴィジョンズにて開催・5月19日~29日
檀家さんの娘さん、田中麻子さんの個展に正榴会のユキナガと長男一太を連れて行って来ました。
素人の私には彫刻イコール木なんで、鉄の作品てどんな感じなんだろうと非常に楽しみでした。会場に着いてみると、まるで鉄っぽくない細くて可愛らしい麻子さんに迎えられました。
鉄の紫陽花、鉄の野原…、今にも壊れそうなものを鉄というとても壊れそうにないもので表現しているというか、移りゆく一瞬を止めたら固まって色がぬけて鉄になっちゃったというか、そんな不思議な空間でした。

姫の子ども達

平成22年4月1日記
柴犬の子ども達、両方とも男の子です。
日本犬保存会に登録し、父「大雷」・母「山の琴寿」に因んで、それぞれ「海の琴正太」「海の雷殿下」と命名しました。
姫の子育ては、はっきりしていて、生まれたばかりの頃は体を張って子ども達を守り、おっぱいをあげ、歩けるようになり一人でエサを食べられるようになると、吠えたりかじったりして厳しくしつけていました。子ども達も親に抵抗して、はた目には喧嘩しているようにしか見えませんでしたが、犬の社会関係を教えていたのでしょうか?これから一人で生きていかなければならない厳しさを教えているようでもありました。約3か月親子でみっちり暮らし、琴正太は長野の弟の処へ、雷殿下は行徳の中台製作所さんへもらわれて行きました。