ぶちギレ!

平成21年 2月4日(水)
息子の小学校では朝のホームルームの時間に、絵本の読み聞かせをしています。今日は私の担当だったのですが、あまりの態度の悪さにぶちギレて、怒鳴ってまいりました。小3の息子のクラスで、一部3、4人の児童が本を読み始めても遊んでいます。最初は先生がそばに行って注意していましたが、途中からその先生は居なくなってしまいました。本を読んでいても、その児童達はおしゃべりや寝転がって遊んだり、あまりにも眼に余る態度でした。
私は途中で読むのを止め、注意しようかと思いましたが、制限時間もあり、ほとんどの子が静かに聴いてくれていたので、ガマンして最後まで読み終えから、一気に爆発!ふざけておしゃべりしていた子達を立たせ、人が話をしている時は静かに聴くように!今度そういう態度とったらやめるぞ!ときつく叱りつけ、今度からきちんとするよう約束し、指切りゲンマンしました。
叱り方が少々手荒だったかなと反省はするところですが、人の話をきちんと聴けるよう教える事はすごく大事だと思います。
このクラスは以前から、読み聞かせの態度が悪いと他のお母さんからも苦情があり、授業中もそうなんだそうです。
これじゃ真面目にやってる児童がかわいそうです。
担任の先生もご苦労な事です。

七面山登詣記録

平成21年 2月8日(日)
2:00 マイクロバスで浦安を出発。総勢17名。首都高から中央道へ。
3:47 甲府南IC下車。
4:00 市川大門コンビニ、ヤマザキデイリーストアに到着。浦安からここまでノンストップ。ここでいつも朝食やおやつを仕入れているが、今回はおにぎり類がまだ入っていなかった。しかも、カップ麺のお湯も切れてしまっていた。店員さんもまさかこんな朝早くに大勢来るなんて思ってもなかったのだろう。しかたなく、在るものを調達してバスの中で食べた。
5:30 七面山登山口着、まだ辺りは暗いので、準備しながらしばらく待機
6:35 登詣開始
6:45 二丁目神力坊着
7:30 十三丁目着
8:13 二十三丁目着
9:26 三十六丁目着、三十丁目あたりから氷が出てきたのでアイゼン装着。
10:30 四十六丁目、和光門着
10:40 展望台、富士山がとてもきれいに見えた。敬慎院にて、お開帳、凍るような堂内で七面大明神にまみえ、一心にお題目を唱えた。その後、昼食、質素だかこれが又格別に美味い!
12:36 下始め、凍っているので上りより、下りの方が要注意!13:16 三十六丁目着
14:02 二十三丁目着
14:35 十三丁目着
15:15 二丁目着、
神力坊の久本上人とお会いした。久本上人いわく、今年は雪が少なく、そういう年の夏は虫が多いのだそうだ。
15:26 下山
17:00 ゆらり
富士眺望の湯・ゆらりで温泉につかって疲れを癒す。が!その後レストランでの食事で、ユキナガが注文したラーメンがいくら待っても来ず、再三催促しても来ない、忘れられていたのだ。怒り爆発!そういえば思い出した、夏には私がざるうどんを忘れられたんだ!
なんかこれからはゆらりに寄る気がしなくなってしまう。
19:32 ゆらり発。河口湖より中央道経由で浦安へ。
21:00 浦安着。お疲れ様でした。

関根薫園先生を偲ぶ

平成21年3月2日(月)
去る一月二十二日、書道研究墨技会会長関根薫園先生(浦安市堀江)がご逝去され、三月二日、当山にて本葬儀が営まれました。
朝の散歩で会うたびに「たまには出てきなよ。」「はい、そのうちに、・・・」を繰り返していて、近所だからいつでも習いに行けると甘え、ここ何年も他の事を優先させて先生のもとへ通うことはありませんでした。思えば二十年以上前、私が中山の荒行を終えた頃、法事の席で先生とお会いし、お坊さんは筆を持つ機会が多いのだから基礎から習った方がいいよ、と勧められ門を叩きました。すでに私の祖母も母も関根先生の弟子でしたから、これで親子三代弟子というわけです。「一」の字の書き方から習いました。横棒一本書く事がこんなにも難しいものなのかと、今まで塔婆書きなどで筆は持っていましたが、横棒一本の奥の深さに愕然とした事を覚えています。
又、先生には普段の添削とは別に、お守りや、檀家さんの名前などでバランスのとりにくい字の手本を書いて頂きました。何年も休んではフラ~っと顔を出し、又数年休んでしまう、いつも書道を後回しにしてしまって、いつの間にか二十年。にもかかわらず、いつも先生には暖かいお言葉をかけて頂き本当に感謝しております。
「自分の字が上手く見えるようになったら、おしまいだぞ。進歩はないぞ。」とよく仰ってました。他にも添削時に教えて頂いたことが、書のみならず、ものの考え方や生き方に通ずるものが沢山ありました。
今更、遅いと思いますが、幸いにも入門当初からの添削用紙が残っております。
先生はよく「休んでも止めなきゃいいんだ。」とも仰ってました。
又、「一」から先生のお顔や声を思い出しながら、ゆっくりと亀のごとく、カタツムリのごとく、常精進致します。千字文はまだ途中までしかお手本を書いてもらっていませんので、又後の世にて必ずお目にかかり是非書いて頂きたいと思っております。
 合 掌 

<当山にある関根薫園先生の書>

履き物を揃えるという事

平成21年4月16日(木)
普段何気なく子ども達に、靴を揃えなさい、と口うるさく言っているが、ふと考えさせられる出来事がありました。
今日、お世話になっている人の家にお邪魔し、帰ろうと玄関先で挨拶をかわしている時、その家の方はさり気なく、あとから来たお客さんの靴を揃えてあげたのだ。普段は気にならないのだが、そのしぐさがあまりにも美しくて、履き物を揃えるという行為を考えさせられてしまった。
そもそも何故履き物を揃えるのだろうか?
お行儀がいいから?
じゃあ、そのお行儀って何だ?
トイレでスリッパを揃えるのはわかる。
次に使う人が使いやすいから。
でも、訪問先で自分の靴を揃える事は?
帰る時、帰りやすいようにか?
でも、これだと靴を履く時、訪問先の主人に尻をむけてしまうじゃないか!そういえば聞いた話だけど神社での作法は、帰る方向に靴を揃える事は神様に対して尻を向ける事になり失礼だから、あがった方向のまま、つまり中に向けたままにするのだそうだ。という事はよその家に行った時は中に向けたままにするのが、主人に尻を向けることがなく礼儀正しいのではないだろうか?でも、お客さんを迎えた家の主人は来客が帰りやすいように、靴をでる方向に揃えてあげる。
揃えてあげる!
人の為に揃えてあげる!
この気持が一番大切な事なんだ!
そうなのだ!履き物は自分のを揃えるのではなく人の履き物を揃えてあげるという行為が美しいのである。で、せっかくここまできて振り出しにもどるようだが、訪問先の主人の手を煩わせない為に自分の履き物も揃えるべきである。よし、今日から子ども達に、履き物を揃えなさい!だけではなく、他の人の履き物も揃えてあげようと教えるのだ。
そういうお前が揃えろっ!
てか。

田中松壽堂

平成21年5月25日(月)
市川北方の妙正寺の玉垣に「浅草田中松壽堂」と刻まれています。
私のひいじいちゃんの店です。発見した時は思わず嬉しくなりました。私のひいじいちゃんは、昭和の初期、浅草で田中松壽堂というお札屋さんをやっていました。うちの先代、つまり私のおじいちゃんはよく母に連れられて、中山近辺のお寺にお札やお守りを納めて回ったそうです。それが縁で東京足立区の寺に小僧に入りました。
田中松壽堂はひいおじいちゃん一代きりで終わってしまいましたが、いまでもうちにお札の版木が残っています。

富士・韮山方面参拝の旅

平成21年5月11日~12日 泉澤慎吾
首都高から都心のビル街を右に見て左にもやに霞む東京湾を眺めながら、幸先の良い十六回目の本山巡り、信仰の旅のスタート。車内はいつもと同じ和気あいあいの楽しい雰囲気。東名から西富士道路へ入る。
移りゆく車窓から残雪光る富士山が見えてきた。宝永年間に大噴火があり、宝永山が出現し、又大沢くずれが発生した。自然の脅威、富士山の歴史を語るガイドさんの名調子に暫し耳を傾ける。

【富士山久遠寺】

午前七時、御住職に見送られ江川橋際を出発して三時間、最初の参拝寺院「富士山久遠寺」に到着する。建武元年(一三三四)正月、日蓮聖人の法孫日郷上人によって、六老僧日興上人の遺志を継いで開かれた由緒本山。富士五山の一つ。日興上人の法脈を継承する一寺として知られる。宗祖在世中より日興上人はこの地を「小泉村は仏法有縁の地」と言われて嘱望し、弘長元年(一二六一)より開教に努められ、既に小泉法華講が出来ていた。然し、度重なる火災に遭い本堂始め伽藍の大半が焼失、再建するも明治元年に客殿始め五棟が再び罹災。その後再建し、客殿は昭和二十七年に完成、実に八十五年振りのこと。
本堂に於いて御開帳、お題目を唱え合掌。お上人に案内され、宗門随一と云われる大太鼓を見学。直径一メートル四〇、重さ一トン二〇〇、とてつもなく大きい。ご好意で一人ずつ打たせて頂いた。
その響きは体中に染み渡り、身も心も洗われる様な感動を覚える。

【北山本門寺】

山門から見る素晴らしい富士山に見送られ久遠寺をあとにする。富士宮市内の蕎麦の老舗「美やじま」で昼食、駿河湾名産、旬の桜海老の天ぷら、名物の手打ちそばに舌鼓、食後一休み後出発。市内の「大本山富士山本門寺」を参拝する。「北山本門寺」とも呼ばれ、七百有余年の昔、日興上人により開創された。永年富士門流の総本山であった。現在では日蓮宗大本山に列せられている。宗祖入滅後、身延山を本拠地として甲斐駿河の伝道に当たられていたが、正応元年(一二八八)宗祖七回忌の後、身延を下山、富士山裾野に広がる大石ヶ原に草庵を結ぶ。その後、重須石川能忠・上野南條時光の両地頭より土地の寄進を受け、上野及び小泉法華講の協力を得て、霊峰富士を望む重須の地に永仁六年(一二九八)、日蓮聖人御影堂・本化垂迹天照神宮・法華本門根源の三堂を建立。寺域六万坪を領し「本門戒壇建設発祥の地」として後進の指導育成に努め八十八歳で遷化されるまでお題目の流布に力を注がれた。当寺は多くの宝物を伝え、中老僧日法上人が
彫刻された「生御影御尊像」は当山第一の霊宝として本堂に安置されている。寺内には日興上人お手植えの幹回り七メートルもある巨杉が七百有余年の間風雪に耐え「題目杉」として現存している。徳川家康ゆかりの「鉄砲の御本尊」は、家康、武田攻めの際、日蓮聖人の御本尊をお守りとして借用したところ、相手の弾がお守りに当たり難を免れたと伝えられる。このお礼として北方八キロメートルから水路を引き本門寺堀として現在でも重要な灌漑用水路として利用されている。参拝の後、案内されて今でも当時と変わることのない澄んだ雪解け水が勢いよく流れる「本門寺堀」を見学。昭和五十九年再建された往時の威容をしのばせる
仁王門前で記念撮影、富士宮をあとにする。

【修善寺温泉】

沼津インターから国道へ入り今日の宿泊地修善寺温泉に向う。山あいに、自然に囲まれた八千坪の敷地の中にこじんまりしたいやしの宿、渡月荘金龍宙(そら)に到着。先ずひと風呂浴びて手足をのばす。程なく夕食タイム、十五回参加者三名を含む永年参加者に貞真上人より記念品が贈られて、その努力を称える。「継続は力なり」あらためて私も頑張る気持が湧いてきた。大塚義教総代の挨拶に続いて、今日一日を振り返りながら懇親を深め、明日も楽しい参拝の旅になることを祈る。山の朝は静寂、温泉の流れる音のみ聞こえている。夜明けに
幻想的な「光の野天風呂」に身を沈めて自然を満喫。朝食後出発、残念ながら雲が低い。

【本山本立寺】

日蓮聖人伊豆法難ゆかりの本山、韮山の大成山本立寺(江川家の菩提寺)を参拝。伊東に流された日蓮聖人と出会った江川家十六代江川太郎左エ門英親は、その教えに深く感銘を受け帰依し、在家のまま弟子となる。永正三年(一五〇六)二十四代英盛は江川邸の大乗庵を移築、本立寺を創建する。本堂の裏手は江川家累代の墓所となっている。寺内には鎌倉東慶寺(駆け込み寺)元徳四年(一三三二)銘の
梵鐘(県指定文化財)が伝わっている。お題目を唱え合掌、後、客殿にて湯茶の御接待を頂く。本立寺では境内の整備を行っており、献木の寄進を受け付けていたので趣旨に賛同し協賛する。次回機会があって再び参詣の砌には、成長した満開の紫陽花、秋には紅葉が出迎えてくれるのではと思いながら下山した。

【いやしの里根場】

予定の時間を少しオーバー、西富士道路から河口湖畔を目指す。裾野に広がる緑のじゅうたん朝霧高原、パラグライダーはじめアウトドアを楽しむ若者、車はスピードアップして進む、のんびり寝そべっている乳牛の群、車が近づくと道路際に集まってくる。先程まで隠れていた富士山が姿を現す。目前に観る富士山さんは息をのむ美しさだ。「西湖いやしの里根場(ねんば)」に到着。
「石挽き手打ちそば松扇」にて昼食。旨い!の一言。全国でも上位にランクされている蕎麦の名店。食後「いやしの里」を散策する。茅葺屋根の集落、昔ながらの水車、庭には大きな鯉のぼりが威勢よく泳ぎ散策する人を楽しませ、武田信玄由来の伝統工芸、西湖根場の歴史、文化の紹介あり、懐かしい日本の姿があった。

【結び】

予定を少々過ぎて帰路につく。青木ヶ原の樹海を抜け、富士に別れを告げて中央高速へ入りスピードを上げる。途中、談合坂にて休憩。心配された渋滞もなく首都高からレインボーブリッジを渡ると間もなく浦安。今回も各本山の歴史を遡り、新しい発見があり、実り多い二日間であった。この度「宝輪トラベル」の添乗員伊藤さんのきめ細やかにお世話を頂き楽しみも倍増した旅であった。心から感謝し、
又来年も参加出来ることを祈りながら家路につく。
 合掌  <檀家・泉澤慎吾いずみざわしんご>

新春初参り

平成21年1月7日(水)
恒例の新春初参りです。参加者60名。
コース:中山法華経寺~大荒行堂~柳島妙見様・法性寺法華経寺祖師堂にてお開帳、大荒行堂では第参行の渡辺勝広上人の御祈祷を受けました。大勢の荒行僧に囲まれ読経の声と木剣の大きな音に身も心も洗われるようでした。その後、法華経寺の大客殿にて昼食を食べ、墨田区にある柳島妙見様・法性寺へ。
法性寺でも妙見様御宝前にて東京東部宗務所長でもある御住職・鈴木良敬上人の気迫のこもった善星皆来の御祈祷を受け、おいしい甘酒を頂きました。

和歌山・大阪方面参拝の旅

平成20年5月14日~16日  泉澤慎吾記
日蓮宗本山巡り参拝の旅も十五年目になる。今回は和歌山・大阪方面の本山をお参りすることになり、曇空の都心を抜けると箱根の山並みが遠くにかすみ、天候に不安を感じながら、のぞみ1号で西へ向う。浜名湖を過ぎ、名古屋へ入る頃は天気も快復、新大阪へ到着すると五月晴れが一行三十一名を歓迎してくれた。阪和自動車道を通天閣、国際空港を右に見て「だんじり祭」で有名な岸和田を経て、和歌山市吹上に位置する「白雲山報恩寺」に到着。

【報恩寺】

慶長十四年(一六〇九)要行院日忠上人が一宇を建立、要行寺と号したのが始まり。徳川四代将軍家綱公のころ、「養珠院お万の方」以来法華信仰に縁深い家柄となった紀州徳川家の菩提寺。寛文六年(一六六六)に紀州藩祖・徳川頼宣公夫人で加藤清正公の五女八十姫こと瑶林院が亡くなられた時、夫人の愛した城南吹上の地、要行寺に葬った。その後、寛文九年二代光貞公が母の追善の為、要行寺を「白雲山報恩寺」と改め諸堂伽藍を整備、寺領二五〇石を寄進し大いに栄えた。明治維新の際、諸堂が破壊され明治十一年に復興、本山に列せられたが、昭和二十年、先の大戦で灰尽に帰し、苦難の末仮本堂を再建、昭和三十六年には心無い者の放火により全焼と、幾度の災厄を受け、昭和四十一年、本堂を再々建し、現在も僧俗一体となり諸堂の整備に努められている。本堂に案内されお開帳が始まり、合掌しお題目を唱える。客殿にて休憩、昼食を頂いた後、貫首様より重要文化財に指定されている徳川家の霊廟、梵鐘、平素は開門することのない菊のご紋の御成門等、ご案内をして頂き、特に請われて大塚総代さんが鐘をつく。四百年の時を越え、その音は歴史の重みを感じさせる。報恩寺の皆様に見送られ、山門をあとに和歌山城へ。

【和歌山城】

天正十三年、豊臣秀吉が弟の秀長に命じて築城させたもの。昭和二十年戦火の為焼失、のち市民の熱い希望により昭和三十三年復元。長い坂道を登り天守閣へ。望楼から眺める大阪湾、和歌山の街並や淡路島。素晴らしい景観が広がり疲れを忘れさせてくれる。

【加太温泉】

和歌山市内を抜けて加太海岸沿いの吾妻屋シーサイドホテルに到着。近くの淡島神社を参拝、雛流しが有名で、子授け、安産祈願等、近在の人々の信仰を集めている。一風呂浴びて手足をのばす。刻々と沈みゆく夕日を眺めながらの夕食は格別、茜色に染まる空と海、旅ならではの景色だ。寄せては返す波の音で朝を迎える。
朝食後、加太海岸を離れ、大阪は堺の妙国寺へ。

【妙国寺】

永禄五年(一五六二)仏心院日珖上人の開山。阿波国讃岐より兵を起こして畿内を支配していた三好豊前守より東西三丁南北五丁にも及ぶ広大な土地を寄進され、日珖上人の父、堺の豪商油屋常信と兄の常祐の協力で堂塔伽藍を建立寄進され、皇室より勅願所と定められた。元和元年(一六一五)大阪夏の陣の戦火を受け全焼、宝永五年(一六二八)再建され歴代によって整備されてきたが、昭和二十年の戦火で再び焼失。昭和四十七年に漸く復興した。本堂にてお開帳後、宝物殿に案内して頂いた。安土桃山時代から幕末に至る様々な貴重な展示物を拝観してあらためて妙国寺の激動の歴史を感じた。又山内には三好家から寄進された「大蘇鉄」(樹齢一一〇〇といわれる)がある。
天正七年(一五七九)、天下統一を志した織田信長、この蘇鉄を安土城に移植せるも、毎夜「妙国寺へ帰ろう」と怪しげな声に激怒、部下に命じ、切らせたところ鮮血が流れたので、さしもの信長も怖れ、再び妙国寺へ戻された。日珖上人、枯死寸前の大蘇鉄を憐れと思い法華経一千部を誦し、鉄くずを与えたところ蘇生したと伝えられている。又幕末攘夷論
いまだおさまらない慶応四年二月十五日、堺を警備する為妙国寺に駐屯していた土佐藩士と、堺港に入港していたフランス軍水兵との間に起きた堺事件。その責を負って割腹し果てた土佐藩士十一名の悲話も伝えられている。今を遡ること百四十年前のことである。
本堂前にて記念撮影をし、戦国動乱の時代に舞台となってきた妙国寺に別れを告げ、大阪道頓堀の「くいだおれ」にて昼食、さすが大阪きっての繁華街、人、人、人・・・の波。
七月八日で閉店とか馴染みの客で店内はごったがえしていた。帰りに旅行幹事の小池さんに法善寺横町、水かけ不動を案内してもらい、尼崎広済寺へ向う。

【広済寺】

別名、近松寺とも称されている。正徳四年(一七一四)日昌上人、尼崎城主松平家の協力を得て由緒ある源氏の「多田満中」勧請の妙見宮を法華道場として再興、この時、建立発起人として大きく貢献したのが東洋のシェイクスピアと称された文豪、近松門左衛門である。
時に日昌上人四十八歳、近松門左衛門六十二歳。本堂で読経、お題目を唱え、本堂脇に眠る近松のお墓(昭和四十一年国の史跡指定)にお参りをする。本堂裏手六畳二間の部屋で七十二歳の生涯を閉じるまで、幾多の名作を書き続け近松文学を世に表した。

【有馬温泉】

二日目は、六甲山脈に寄り添うように広がる日本三大温泉の一つ、有馬温泉向陽閣で旅装を解き疲れを癒す。夕食の前に、十五回一度も休むことなく参加されてきた田中八重子さん、小池弘蔵さんのお二人に、貞真上人より記念品が贈られる。
「継続は力なり」のお二人に拍手。食事に移り和やかな時を過し親睦を深める。山脈に点在する旅館のあかりがきれいな夜だった。東の空が明るくなり澄み切った朝を迎える八時三十分出発タイム、豪華な風呂・美味しい料理に少々去り難い朝だ。

【震災記念公園・異人館】

神戸垂水ICから吊り橋としては世界一を誇る「明石海峡大橋」を渡り淡路島へ。平成七年一月十七日午前五時四十六分阪神淡路を襲った震度七、三の大地震、亡くなった人六四三八人、戦後最大の被害をもたらした災害の記録を残す「北淡震災記念公園」を見学。「野島断層」が一四〇メートルにわたって当時のまま保存され、余りの凄まじさに只々驚くのみ、いまなお自然の脅威を如実に語りかけている。あれから十年、被災地も復興し、おだやかな生活を取り戻しつつあるとはいえ、まだまだ不安を抱えての生活に思いを寄せながら、再び神戸へ。六甲山脈を貫く全長8キロにも及ぶ舞子トンネルを抜け、震災前と変らぬまでに復興した神戸三宮へ。途中のビルの大時計が五時四十六分で止まっていたのが印象的だった。北野異人館を見学、明治中期の建築物(重要文化財)
のベランダからは神戸港まで見渡せる素晴らしい眺望が広がる。

【結び】

旅も終りに近づき、天気に恵まれ事故も無く参拝を続けることができた。新神戸より「のぞみ」で東京へ。三日間を振り返り、あらためて法華信仰の歴史を学び、時の流れを感じ、震災のつめ跡に思いを寄せる有意義な旅であった。これからも本山を始め日蓮聖人ゆかりの由緒あるお寺を知ることは大切なことであり、出来得る限り参加したいと思っている。
お世話になった皆さん、ありがとうございました。
 合掌  <檀家・泉澤慎吾いずみざわしんご>

もちつき

平成20年12月14日(日)
予報通り雨になりましたが、テントを張って決行しました。
今年は品目を増やし、イチゴ大福といそべ巻きを加えました。
つきたてのおもちに餡子とイチゴを包みかぶりつくと、
ジュワーっとひろがる食感が最高でした。
いそべ巻きも、パリッと香ばしく海苔の街・浦安ならではの味でした。

めぐりあわせ

平成20年11月21日(金)
富士山の麓のお寺で仏教学の研修会があり、2日間みっちり勉強して来ました。さて、私は幼い頃からよく人に忘れられます。
存在感がないのでしょうか?  しょっちゅうです!
研修会の帰り道、沼津インターそばで美味しそうなうどん屋さんがあったので、迷わず入りました。私が注文したのは、ぶっかけうどんといってうどんをゆであげてダシを少しかけたシンプルなもの。それにおにぎりを付け、野菜のかき揚げも注文したのです。野菜のかき揚げはその場で揚げてくれ、ホントに美味しそうでした。店員さんが、今揚げる最中なので、あとから席に届けるからということで、ぶっかけうどんとおにぎりを受け取り席に座って食べ始めました。私はその時から一抹の不安があったのですが、その不安は見事に的中し、いつまでたってもかき揚げを持って来てくれる気配がありません。
頼む!早く気付いて持って来てくれ!と祈りながら、あえて催促せず、自分のめぐりあわせを試してみたのです。
やっぱり忘れられていました…、うどんを食べ終わり、さすがにもう来ないなという頃、店員さんに言ってかき揚げをキャンセルして、先払いしたお金を返してもらい店を出ました。
店員さん、申し訳なさそうに謝ってくれました。私は店員さんを怨んでません。そういうめぐりあわせのもとに生まれているんだから、と変に納得できました。ひょっとしたら、このようなめぐりあわせは、私は前世で、もしくは今まで他人にそのような感情を与えてきてしまった報いなのではと、今回の研修会を通して感じた次第です。
おかげで腹いっぱいにならず、仕切りなおしをして、足柄サービスエリアでカレーを食べてしまいました。